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たゆたう海のような夢のなかから、人々の騒ぐ声が耳を打っていく。それは現実の喧騒であり、ドアの外から聞こえる人々の声だった。
「うーん……何かあったのでしょうか……?」
まだ夢うつつの眼をしょぼしょぼとさせつつ、ベッドから這い出るように起き上がったファルマはドアへと向かっていく。
ドアを開けると、普段は静かな廊下を何人もの使用人達が駆け足で行き来していた。そのうちの一人にファルマが声をかける。
「何かあったのですか?」
「デイジーお嬢様が誘拐されたんだ! いま警察の人を呼んだりメディ達に事情を聞いたり大変なんだよ!」
「……⁉」
怒鳴るような大声でそれだけ答えると、その使用人は急いで廊下の向こうへと駆け走っていく。
「デイジーさんが……!」
完全に目が覚めた真面目な顔になって、ファルマは強く拳を握りしめた。
○
薄暗い場所、ほこりと汚れにまみれた固い床にデイジーは横たえさせられていた。気絶から目が覚めて最初に見えたのは、数メートルはある金属製の大きな棚と、そこに並べられている無数の木箱や段ボール箱だった。
(ここは……倉庫? 私は、確か……そうよっ、馬車が襲われて、私も……!)
そのとき息苦しさを感じて口をむぐっとしてしまう。口には猿ぐつわが噛ませられていて、手足も縄で拘束されていた。
後ろ手の状態でなんとか縄を解けないかじたばたしていると、薄暗い視界のなかに誰かの歩く音と姿が差し込まれる。
デイジーの前で足を止めたのは人相の悪い数人の男達だった。彼らの真んなかに立つボスが煙草を吹かしながらデイジーを見下ろした。
「こいつがイーザ家の一人娘か」
「へい親分」
「馬鹿野郎!」
ドガッ! ボスが部下を殴る。
「アイタッ⁉」
「親分じゃねえ! ボスだって何度言ったら分かるんだ!」
「す、すいやせんボス……」
「それで? 身代金の要求はしたのか?」
「そりゃもう、たんまりと要求してきやした。なんせこいつの家は超がつくお金持ちですからね。俺達全員が遊んで暮らせる額を言っときました」
「ふん、まあいい。お前らが自分の分け前をどう使おうが好きにしな」
「? ボスは遊ばないんですかい?」
「俺には野望があるんだ。この金を元手にして、裏世界で伸し上がってやるのさ」
「さっすがボス! 俺達とはスケールが違げーや!」
「ふん、もっと褒め称えろ」
部下に称賛されて満更でもないボス。それから部下が舐めるような目でデイジーを見た。
「それにしてもべっぴんな女だなぁ。娼館にもこのレベルのはなかなかいやせんぜ」
デイジーは怯えてしまう。吐き気を催すような気持ち悪さが喉に込み上げてきた。
「おいおい、金が来る前に一発おっ始めるつもりか? やめとけやめとけ」
「なんでですかいボス?」
「噂じゃこいつは病気持ちらしい。それも特効薬のない面倒くせえやつだ。感染でもしてのたうち回って死ぬことになったら最悪だぜ」
「げぇー⁉ マジですかい⁉ とんだ外れじゃねーか、もったいねえー!」
「フグを毒ごと食うようなもんだな。死にてーんなら勝手にしろだが」
「…………」
部下達は互いに顔を見交わして、溜め息混じりに肩をすくめた。さすがにリスクを負いたくはないらしい。
(……感染症じゃないけど……わざわざ言うことはないわね。どっちみち猿ぐつわのせいでしゃべれないけど)
もし彼らが病気が感染しないことを知ったらと思うと、デイジーはぞっとした。それが現実になったら死にたいと思った。
ボスがデイジーに背を向ける。
「俺はあっちに行ってる。交代で娘を見張っとけ」
「うっす!」
そうしてボスが元来た入口のほうへ向かおうとしたとき、いつの間にそこにいたのか、何者かが入口の前に立ちはだかっていた。
とっさにボスと部下達が身構える。
「何だあテメー⁉ いつの間にそこにいやがった⁉」
「答える義務も必要もありません。貴方達はいまここで全員気絶するのですから」
「何だと⁉」
それはデイジーの聞き覚えのある声だった。
暗くて姿はよく見えないけれども、ファルマの声に違いなかった。
「お前らやっちまえ!」
ボスの掛け声とともに、部下達が手に拳銃を持ってファルマへと構える。何丁もの拳銃の引き金が同時に引かれたが、その瞬間、ファルマの姿は彼らの前から消えていた。
弾丸の雨が入口のドアに当たって、甲高い金属音が倉庫内に木霊する。部下達も口々に叫んだ。
「消えた⁉」
「どこ行きやがった⁉」
「探せ!」
「探す必要はありません」
『⁉』
全員がファルマの声のしたほうに振り返る。しかしそこにはすでに彼の姿はなく、代わりにあったのは冷たい床に伸びている部下の一人だった。
「ジョン⁉」
「いつの間に⁉」
「グアッ⁉」
『⁉』
また一人、部下がうめき声とともに床に崩れていく。しかしそこに目を向けたときには、すでにファルマの姿は影も形も見つからない。
「何なんだ⁉ 何なんだよこいつ⁉」
「ひぃっ⁉ 逃げろぉ!」
「おい馬鹿逃げんじゃねえ!」
恐怖に駆られて入口へと駆け出していく部下にボスが怒鳴る。しかしその刹那、風のようななにかがその部下のそばを横切って、その部下がうめき声すら漏らさずに床に倒れていく。
「ジェームズ⁉」
「固まれお前ら! バラけたらやられるぞ!」
「無駄です」
「⁉」
声のしたほうにボスが振り返る。だがしかし、やはりそこにはすでにファルマの姿は消え失せていた。
そしてボスが目を離したその一瞬の間に、残っていた部下達が立て続けに床に突っ伏していく。
「後は貴方だけですね」
「……っ⁉」
声のした背後へとボスが振り返り、それと同時に拳銃を乱射していく。
「ウオオオオッ! 死ねッ!死ねッ!死ねッ!死ねェッ!」
はたしてそこにファルマの姿はあった。しかし彼は迫る弾丸の雨を、目にも止まらぬスピードで片手を動かして捕らえていく。
カチカチカチカチ、ボスがすべての弾丸を撃ち尽くした。
「全てなくなったようですね。お仲間に当たったらどうするつもりですか?」
ファルマが片手を広げて、大量の弾丸が床に落ちていく。音が辺りに響いていく。
ボスの震える手から拳銃が滑り落ちた。
「あ、な、何なんだお前、本当に人間なのか?」
「れっきとした人間ですよ」
ファルマがにこりと笑う。
次の瞬間、彼の姿はその場から消えていて、ボスが白目を剥いて床に崩れていく。その背後に彼は立っていた。
「もしもデイジーさんをこれ以上傷付けていたら……貴方達を塵も残さずに消していたところでした」
冷たいその声はもう誘拐犯達には届いていない。
それを聞いていたのは、すべてを目の当たりにしていたデイジーだけだった。
○
誘拐犯達全員を倒し終えると、ファルマはデイジーの元へと近寄って屈んだ。彼女の猿ぐつわを取りながら、いままで屋敷で見せていたように優しく言う。
「もう大丈夫ですよ、デイジーさん。怖かったでしょう?」
「…………」
デイジーは彼をじっと見つめていた。
「……お強いんですね。お父さんが言っていたことは本当だったんだ……まるで風みたいに倒してしまって……」
「いえいえ、私なんてまだまだ。世界には音速や光速で動くような猛者がいますから」
「…………」
ファルマがデイジーを縛っていた縄をほどいていく。彼女が彼に聞いた。
「どうしてここが……?」
「デイジーさんの匂いがしましたから」
「貴方は犬ですか⁉」
「あはは」
ファルマは無邪気に笑う。さっき見せた圧倒的実力と威圧感が、まるで別人のように思えた。
「冗談です。彼らに捕まっていたときの怖さを和らげようと思って」
「…………」
「追跡魔法で彼らの馬車の足取りを追ったんです。貴方が誘拐された場所から。本来は薬の素材となる動物や魔物を追跡する際に使う魔法です」
「他の方々は……? 警察とか……?」
「申し訳ありません、貴方を助けることで頭がいっぱいで。ここには一人で乗り込んできてしまいました」
デイジーの縄がほどかれる。ファルマは彼女に手を差し伸べた。
「ほどけました。さあお屋敷に帰りましょう。イーザさんや警察にも連絡しないと……」
デイジーはファルマの手を取って立ち上がると彼に抱きついた。ファルマが戸惑った声を出す。
「デイジーさん……?」
「……怖かった……本当に怖かったんです……助けてくれて本当にありがとうございます……」
「…………」
ファルマがそっとデイジーを抱きしめ返す。優しい声を耳元でささやく。
「私も貴女が無事で本当に良かった。世界中の誰が敵になろうとも、私は貴女の味方です。貴女がお望みになる限り、ずっとおそばにいます」
建物の外で何台もの馬車が停まる音がする。ここを突き止めた警察の馬車だった。
そしてデイジーは無事に保護され、誘拐犯達は警察に逮捕された。
余談として、デイジーを助けたファルマは警察からは独断専行はするなと注意され、デイジーの両親からは娘を助けてくれてありがとうと大いに感謝されたのだった。
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