第九十五話 前夜
イベント前日。
朝から落ち着かない一日だった。
仕事中も、
時計を見る回数がいつもより多い。
「明日だね」
昼休み、
愛美が笑いながら声を掛ける。
「うん」
「緊張してる?」
美咲は少し考え、
苦笑した。
「半分は緊張。
半分は楽しみかな」
「そのくらいがちょうどいいよ」
愛美の言葉に、
肩の力が少し抜けた。
仕事を終えると、
事務所へ立ち寄る。
最終確認のためだ。
佐藤が資料を閉じながら言う。
「準備は予定どおりです」
「集合時間は午前九時」
「控室への導線も確認済みです」
「体調だけは気を付けてください」
「はい」
美咲は大きく頷いた。
「一つだけ覚えていてください」
佐藤は穏やかに微笑む。
「明日は、完璧を目指さなくて大丈夫です」
「楽しむことを忘れないでください」
その一言が、
胸に残った。
帰宅すると、
陽菜が色鉛筆を持って駆け寄ってきた。
「ママ!」
「見て!」
一枚の絵。
大きなステージの上で、
笑顔の女性が歌っている。
客席には、
たくさんの人。
上には大きく、
「がんばって」
幼い文字で書かれていた。
美咲は思わず目を潤ませる。
「ありがとう」
「これ、明日持っていっていい?」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
「うん!」
夕食後。
持ち物をもう一度確認する。
出演パス。
資料。
飲み物。
スマートフォン。
充電器。
最後に、
手帳をバッグへ入れた。
今では、
お守りのような存在だった。
夜。
窓の外では、
静かな夏の風が木々を揺らしている。
美咲は机に向かい、
手帳を開いた。
『イベント前日。
準備完了。』
少しペンを止める。
これまでのページを、
何気なくめくった。
不安でいっぱいだった日。
眠れなかった夜。
「異常なし」とだけ書いた日。
「今日も楽しかった」と書けた日。
すべてが、
ここにつながっている。
最後に、
今日のページへ一行だけ書き加えた。
『明日は、笑顔で帰ってこよう。』
手帳を閉じる。
部屋の明かりを消し、
ベッドへ入る。
緊張はある。
それでも、
不思議と心は穏やかだった。
明日は、
新しい一歩を踏み出す日。
その一歩は、
決して一人で歩くものではない。
家族の想い。
仲間の支え。
応援してくれる人たちの声。
そのすべてを胸に、
美咲は静かに目を閉じた。
夏の夜は、
明日への期待を包み込みながら、
ゆっくりと更けていった――。




