第八十七話 小さな違和感の先へ
六月も終わりに近づいていた。
湿った風が街を包み、
夕方には雨が降る日も増えてきた。
美咲の日常は、
落ち着きを取り戻している。
朝は陽菜を送り出し、
会社へ向かう。
仕事を終え、
帰宅して夕食を作る。
夜は配信をする。
その繰り返しだった。
ただ一つ。
毎晩の習慣が増えていた。
手帳を書くこと。
その日の終わりに、
数行だけでも必ず記録する。
異常があっても。
なくても。
今日も最後のページに書く。
『異常なし。』
その文字を見るたび、
少し安心できた。
水曜日。
会社帰り。
美咲は駅前の書店へ立ち寄った。
配信で紹介する本を探すためだった。
店内を歩きながら、
新刊コーナーを見る。
ふと、
背後から誰かが本を取る気配がした。
美咲は少し横へ避ける。
「すみません」
低い声。
振り向くと、
スーツ姿の男性が軽く会釈した。
「いえ」
それだけ。
本を手に取り、
男性は別の棚へ歩いていった。
何もおかしなことはない。
普通の出来事。
それでも、
美咲は一瞬だけ胸がざわついた。
――気にしすぎ。
そう思って、
本を選び始める。
帰宅後。
夕食。
家族団らん。
そして夜の配信。
今日も平和だった。
コメント欄は温かい。
最後まで、
特に問題は起きない。
配信終了後。
手帳を開く。
『書店で男性と接触。
互いに避け合っただけ。
異常なし。』
少し考えて、
最後に書き足す。
『気になったのは自分の感情。
出来事ではない。』
ペンを置く。
この一文は、
今までで初めてだった。
翌日。
事務所。
佐藤へ手帳を見せる。
佐藤はその一文を読み、
ゆっくり頷いた。
「とても大切な記録です」
美咲は少し驚く。
「そうですか?」
「はい」
「出来事と感情を分けて書けています」
「これは、ご自身の心を守ることにもつながります」
美咲は静かに息をつく。
怖さは、
完全には消えていない。
でも、
怖いからといって、
すべてを疑うようにはなりたくない。
その気持ちを、
佐藤は理解してくれていた。
帰り際。
セキュリティ担当が声をかける。
「高梨さん」
「最近は異常なしの日が続いています」
「それ自体が、とても良い傾向です」
「ありがとうございます」
美咲は笑顔で答えた。
事務所を出ると、
雨が降り始めていた。
バッグから折りたたみ傘を取り出す。
広げた傘は、
淡いベージュ色だった。
ふと、
最初の青い傘を思い出す。
あの日から、
ずいぶん時間が過ぎた。
立ち止まることなく、
美咲は静かに歩き出す。
雨音が、
街を優しく包み込んでいた――。




