第八十五話 止まった時間、動き出す時間
二つのアカウントが姿を見せなくなってから、
二週間が過ぎた。
配信は穏やかだった。
コメント欄には、
いつもの常連たちの名前が並ぶ。
笑顔で終わる夜が続いていた。
美咲は少しずつ、
「普通」の感覚を取り戻していた。
仕事帰りに寄り道をする。
休日は陽菜と公園へ行く。
スーパーにも、
以前ほど身構えずに入れるようになった。
もちろん、
確認する習慣は変わらない。
送り主を確かめる。
手帳を書く。
事務所へ報告する。
それはもう、
特別なことではなくなっていた。
金曜日の夕方。
事務所から定例のオンラインミーティングが入る。
画面には佐藤と、
セキュリティ担当が映っていた。
「ここまでの状況をご報告します」
佐藤が資料を開く。
「この二週間、新たな接触は確認されていません」
「郵送物なし」
「DMなし」
「問題となるコメントなし」
美咲は静かに頷く。
「良かった……」
思わず、
言葉が漏れた。
佐藤も微笑む。
「私たちも同じ気持ちです」
しかし、
その表情はすぐに引き締まる。
「ただし、監視体制はこのまま維持します」
「現時点では、終息したとは判断しません」
「はい」
美咲も異論はなかった。
経験が教えてくれた。
静かな時間が続いても、
それだけでは何も断定できない。
夜。
配信開始。
今日は雑談配信。
リスナーから、
夏休みの予定について質問が届く。
「皆さんは旅行とか行きますか?」
コメント欄が賑わう。
美咲は笑いながら答えた。
「私はまだ予定は決めてないんです」
本当だった。
家族とも、
まだ相談していない。
配信終了。
手帳を書く。
『本日も異常なし。』
その一行だけで、
ページが終わった。
これまでで一番短い記録だった。
翌朝。
休日。
陽菜と近くの公園へ向かう。
滑り台。
ブランコ。
砂場。
元気に走り回る姿を見ながら、
美咲はベンチへ腰掛けた。
青空が広がっている。
風も心地よい。
「ママ!」
陽菜が手を振る。
美咲も笑って手を振り返した。
その時。
ポケットのスマートフォンが震える。
佐藤からだった。
短いメッセージ。
【お時間のある時に、お電話いただけますか】
美咲の胸が、
少しだけざわつく。
急ぎとは書かれていない。
でも、
この文章は見慣れていた。
陽菜の笑顔を見つめ、
深呼吸をする。
今すぐ慌てる必要はない。
まずは、
娘との時間を大切にする。
そう決めて、
スマートフォンをしまった。
しかし――。
事務所では、
佐藤が机の上の一枚の資料を見つめていた。
そこには、
新しく確認された情報が一つだけ記されている。
内容は、
まだ誰にも伝えられていない。
佐藤は静かに息を吐き、
美咲からの電話を待っていた――。




