第六十九話 境界線
帽子の男性とすれ違った日から、
三日が過ぎた。
何事も起きていない。
例のDMも届かない。
高額ギフターも静かだった。
少しずつ、
私の緊張も和らいできていた。
そんな時だった。
仕事を終え、
スマホを見る。
事務所の佐藤から連絡が入っていた。
【明日、お時間いただけますか】
翌日。
私は仕事を早退し、
事務所へ向かった。
応接室には、
佐藤だけではなく、
法務担当の女性もいた。
少し驚く。
「今日は念のため、お話があります」
法務担当が穏やかに話し始めた。
「高梨さんが悪いわけではありません」
「ですが、人気が出ると『応援』と『過度な接触』の境界線が曖昧になることがあります」
私は静かに耳を傾ける。
「ですので、事務所としてルールを決めます」
資料が配られる。
そこには新しい方針が並んでいた。
・個人的なDMには返信しない
・プレゼントは事務所経由のみ受け付ける
・住所が推測される話題は避ける
・一人で判断せず、必ず相談する
私は頷いた。
少し申し訳ない気持ちもあった。
応援してくれる人まで、
疑ってしまうようで。
その表情を見て、
法務担当が微笑んだ。
「これはファンを疑うためではありません」
「高梨さんにも、ファンの皆さんにも安心してもらうためです」
その一言で、
胸のつかえが少し取れた。
夜。
配信開始。
私は冒頭で一つだけ話した。
「事務所からお知らせがあります」
コメント欄が静かになる。
「今後、お手紙やプレゼントは事務所宛てでお願いします」
「DMのお返事も、基本的にはできなくなります」
私は続けた。
「皆さんに安心して応援していただくためのルールです」
「ご理解いただけたら嬉しいです」
数秒の沈黙。
そして。
【了解!】
【その方が安心】
【ルール大事】
【これからも応援するよ】
温かいコメントが次々に流れる。
私は思わず笑顔になった。
その時。
例の高額ギフターが現れた。
ギフトは一つだけ。
いつもより小さい。
コメント。
【分かりました】
短い。
それだけだった。
私は胸をなで下ろす。
受け入れてくれた。
そう思った。
配信終了後。
事務所宛てのメールが一通届く。
佐藤から転送されたものだった。
差出人名は、
ハンドルネームだけ。
件名。
「ルールについて」
本文。
美咲さんが決めたことなら守ります。
でも、前みたいに話せなくなるのは少し寂しいです。
これからも一番応援しています。
それだけだった。
脅しではない。
暴言でもない。
ただ。
最後の一文だけが、
妙に心に引っ掛かった。
「一番応援しています。」
応援。
その言葉は温かい。
だからこそ、
境界線を見失うと危うい。
私はメールを保存し、
佐藤へ返信した。
【共有ありがとうございます】
すぐに返事が来る。
【引き続き、こちらで対応します】
私はスマホを置いた。
もう一人で抱え込まない。
それだけは決めていた。
そして、
誰も知らない場所で。
一人の人物が、
静かにスマホの画面を閉じる。
「事務所経由か……」
小さくつぶやいた声は、
誰にも届かなかった――。




