第百四話 約束の時間
日曜日の朝。
青空が広がり、
夏の名残を感じさせる陽射しが街を照らしていた。
美咲は朝早くから、
キッチンでお弁当を詰めていた。
「ママ!」
陽菜が小さなリュックを背負って走ってくる。
「見て!」
胸には、
幼稚園でもらった名札が揺れていた。
「かわいいね。」
「今日は楽しみ?」
「うん!」
満面の笑みで頷く。
その笑顔を見ながら、
美咲は昨日の予定表を思い出していた。
午前十時。
事務所とのオンライン打ち合わせ。
午前十時三十分。
幼稚園のお祭り開始。
どう考えても、
両方を同じ時間にこなすことはできない。
スマートフォンには、
佐藤から届いたメッセージが表示されている。
『本日の打ち合わせは三十分ほどを予定しています。』
美咲は画面を見つめたまま、
動けなかった。
恒一が隣へ来る。
「まだ迷ってる?」
「うん……。」
「佐藤さんに相談してみたら?」
「でも……。」
また、その言葉だった。
『でも。』
断ったら迷惑を掛ける。
予定を変えてもらうなんて申し訳ない。
そんな思いが頭を巡る。
恒一は静かに笑う。
「相談することと、わがままを言うことは違うよ。」
その言葉に、
美咲は少しだけ肩の力が抜けた。
深呼吸をして、
佐藤へ電話を掛ける。
数回の呼び出し音。
『おはようございます、高梨さん。』
「おはようございます。」
「実は……。」
美咲は事情を話した。
陽菜のお祭り。
時間が重なってしまったこと。
打ち合わせの日程を変更できないか、
申し訳なさそうに尋ねる。
少しの沈黙。
美咲の胸が高鳴る。
やはり迷惑だっただろうか。
すると、
佐藤は穏やかな声で答えた。
『もちろん変更できますよ。』
「……え?」
『ご家族との予定は大切になさってください。』
『こちらは午後でも、明日でも問題ありません。』
思わず、
言葉が出なかった。
『高梨さん。』
『長く活動を続けるためには、仕事だけでは続きません。』
『私たちも、そのことは大切にしたいと思っています。』
通話が終わる。
美咲はしばらく、
スマートフォンを見つめていた。
「変更してもらえた?」
恒一が尋ねる。
美咲はゆっくり頷いた。
「もっと早く相談すればよかった。」
その声には、
安堵と少しの照れくささが混じっていた。
幼稚園のお祭り。
園庭には、
子どもたちの笑い声が響いている。
輪投げ。
ヨーヨー釣り。
かき氷。
陽菜は走り回りながら、
何度も振り返る。
「ママー!」
「見て!」
そのたびに、
美咲は大きく手を振った。
ほんの数時間。
それだけの時間だった。
でも、
その数時間は、
どんな仕事にも代えがたい時間だった。
夜。
手帳を開く。
今日の出来事を書き終える。
最後に、
ゆっくりと書いた。
『相談することは、信頼することでもある。』
もう一行。
『一人で抱え込まなくてもいい。』
ページを閉じる。
机の上には、
陽菜がお祭りでもらった小さな風車。
くるりと回る羽根を見ながら、
美咲は静かに微笑んだ。
失うことを恐れて握りしめていた手を、
ほんの少しだけ緩めることができた。
その小さな変化は、
きっとこれからの歩き方を変えていくのだろう――。
第104話では、「断る」ではなく「相談する」ことをテーマにしました。
ここで佐藤を「理解ある大人」として描いたのは意図的です。物語では対立を作ることも大切ですが、すべてを対立で解決すると現実味が薄れます。
また、美咲自身も「相談=迷惑をかけること」という思い込みから一歩踏み出しました。
これはストーカー編で「一人で抱え込まない」ことを学んだ美咲が、今度は仕事と家庭の両立という新しい課題にも、その学びを生かし始めた瞬間でもあります。




