第百三話 断れない理由
金曜日の夜。
配信を終えた美咲は、
机の上に置かれたノートパソコンを閉じた。
その直後、
スマートフォンが震える。
佐藤からのメッセージだった。
『お疲れさまです。
来月のイベント出演について、ご相談があります。』
美咲はリビングへ移動し、
ソファに腰掛ける。
オンライン通話が始まった。
「こんばんは。」
『こんばんは、高梨さん。』
画面の向こうの佐藤は、
いつもの穏やかな表情だった。
『まずは良いお知らせです。』
『イベント後の反響がとても良く、新しいご依頼が増えています。』
画面には一覧が表示される。
地方イベント。
雑誌取材。
企業コラボ。
ライブ配信企画。
「こんなに……」
美咲は思わず息をのんだ。
『もちろん、全部受ける必要はありません。』
佐藤は落ち着いた口調で続ける。
『ですが、どれも魅力的なお話です。』
「少し考えさせてください。」
『もちろんです。』
通話を終えたあとも、
画面には依頼一覧が残っていた。
どれも、
数か月前なら夢のような話だ。
断る理由なんて、
どこにもない。
……本当に、
そうだろうか。
翌日。
朝食の席。
恒一が新聞を畳みながら尋ねる。
「何か考え事?」
「うん。」
美咲は正直に話した。
「仕事が増えてきてね。」
「ありがたいんだけど……。」
言葉が続かない。
恒一は急かさず、
静かに待っていた。
「断るのが怖いの。」
その一言は、
自分でも意外なくらい素直だった。
「せっかくいただいた仕事なのに。」
「断ったら、期待を裏切る気がして。」
「もう次は呼ばれないかもしれないって……。」
恒一は少し考え、
穏やかに口を開く。
「美咲。」
「仕事を断ることと、人を大切にしないことは同じじゃないよ。」
「……。」
「全部引き受けて体調を崩したら。」
「そのほうが、みんな困るんじゃないかな。」
美咲は何も言えなかった。
その言葉には、
反論が思い浮かばなかった。
午後。
陽菜がリビングで折り紙を広げている。
「ママ!」
「今度の日曜日ね!」
「幼稚園のお祭りなんだよ!」
「あ……。」
美咲は予定表を開く。
そこには、
事務所との打ち合わせ予定が入っていた。
時間が重なっている。
陽菜は無邪気に続ける。
「ママも来るよね?」
その笑顔に、
胸が締めつけられる。
「もちろん……」
そう答えたものの、
声は少し小さかった。
夜。
手帳を開く。
今日のページに、
ゆっくりと書く。
『断れないのは、優しいからではない。』
少し考え、
もう一文。
『失うことが怖いからだ。』
その文字を見つめながら、
美咲は静かにペンを置いた。
本当に守りたいものは何なのか。
その問いに、
まだ答えは出ていない。
けれど、
その答えを探す時間は、
もう始まっていた――。




