第1話 グッバイ、平穏な日常。(2)
紳士っぽく頭を下げた彼は、とんでもないことを口にした。
「見ての通り、吸血鬼です」
獲物を目にした捕食者のような笑みを浮かべる彼の口からは獣のような牙がのぞいている。
信じられないほど整った顔をしているせいか、浮世離れした橘の存在感に紬は背筋が冷たくなった。
吸血鬼ってなんだっけ…?あの、血を吸うやつ?え、これって殺されるのでは…?
意味が分からなすぎて紬は佇んだ。
「あの、今は何年でしょうか?」
「えっと、2026年だよ」と紬が答えると、彼の表情が一瞬にして変わった。
棺桶の中で静かに正座しなおし、背筋をピンと正す。まるで舞台俳優のように優雅な所作だ。
「…二〇二六……‼」
紬の言葉をかみしめるように繰り返し、その瞳にはどこか切なさが滲んでいる。
「百…五年か…」
彼はゆっくりとため息をつき、棺桶の縁に手を置いて遠くを眺めながら呟く。
「そんなに眠っていたのですね…」
「…なんの話?」
「大正時代はもう終わってしまったんですね、つまり久子様はもう…」
…なんというか、もう、意味不明。
「ええっと、ホンモノ…?」
「ええ。もちろん本物ですよ。ただ、最近のニンゲンは高糖質な食事のせいで吸血鬼が絶滅寸前にまで追いやられているのですが」
最近って、いつの話よ…
彼は優雅にしゃべっているが、それはただの愚痴だ。
「はあ、」紬は混乱して何も言えない。
「久子様には大変お世話になりました。なのであなた様の血も月に三回ほど…」
橘は胸の前で手を合わせ、屈託のない微笑みを顔に張り付けながら猫なで声で話しかけてくる。普通に、卒倒しそうなビジュアルなのだが、瞳の奥には冷たい光をはらんでいた。
「はい、出た!それが目的だろ」
「いえいえ違いますよ。ありがたく貴方のお屋敷に住まわせていただく代わりにあなたを生かし、私は貴方の血をいただく。共生関係というものです」
橘は心地のよい速度で穏やかに話すが、話はめちゃくちゃだ。
「それ絶対違う!吸わせてもらう側が何を言ってるの⁉」
それって脅迫じゃん、と引き気味の紬に彼は怪しく微笑んだ。鋭い牙がチラリと光る。
「血は愛の液体ですから」
「エロ要素出してこないでよ…怒られちゃう」
彼のじっとりとした視線が紬の首筋に注がれる。
…まだ血を吸われていないけれど(吸わせる気もないけど!)視線で首筋が痛いんですけど。蛇に睨まれたカエルってこんな気持ちだったんだろうな、きっと。知りたくなかったけれど。
「ところで桐谷様、下のお名前を教えていただけますか」そうだった、と言わんばかりに橘は手をたたいた。
「なんで苗字知ってるの…」
「貴方の身体を見ればわかります。久子様のひ孫様でございますね」
橘は赤い瞳を光らせながら、紬の頭のてっぺんからつま先までくまなく見てそう言った。
「身体を見ればって、どういうこと?気色悪いんだけど」
それにひいばーちゃんを知ってるってどういうこと…?
紬は手足が冷たくなっていくのを感じた。
「ところで、下のお名前は…」
「こんな怪しい人に名前を教えるわけないでしょ!」
「えぇ?まあ、よいでしょう。そうしたら、貴方のお屋敷に連れて行ってください」
…こいつ、礼儀正しいふりしてどこまで図々しいんだ。
「は、何言ってるの?警察に通報するよ?というか通報するね」
紬は短パンのポケットからスマホを取り出し電源を入れる。
「そのようなことをするのであれば…それより先に貴方を食べるまでです」
橘は嬉しそうに言うが、それは声だけで、今にも紬に襲い掛かりそうな鋭い眼光で見つめている。
逃げないと…!
紬は腰を上げようとするが、なぜか力が入らない。どうやら腰が抜けたらしい。
涎をじゅるりと飲み込んだ男は黒光りする棺桶から身を乗り出し、紬へじわじわと近づいていく。
「こ、殺されるー‼」
紬のかすれた声が巨大な洋館にこだました。




