3話 ボールには縁がある
ボール――それは、球状の物体の総称である。
そんなことを確認するまでもなく、俺たちの眼前にはボールと言う他ない純白の塊が迫ってきていた。
――パリン
ガラスの結合が崩壊する、乾いた音。
これが世界滅亡へのカウントダウンとするなら、窓が割れる音はカウントの最後の一回であろう。
実際、時間にするとコンマ一秒を切っていただろうか。
もはや考える暇も残されていなかった。
反射的に身体が動くのを待つしかなかったのだ。
「サツキッ!!」
「ひゃっ!」
幸いにも、俺の身体は動いてくれた。
それも、今までに見せたことのない驚異的な反射神経を発揮してくれたのだ。
我ながらここまで動けたことは立派に思う。
それもこれも、世界滅亡の四文字が頭にちらついていたからであろう。
ひとりでに動き出した俺の右手はまず、左隣に立つサツキの顔に直撃しようとしていた硬式球をがっしりと掴んだ。
グローブは言うまでもなくつけていなかったが、痛くはなかった。
それと同時に、手を出すことで生まれた慣性に乗せて足をサツキの方へ踏み出した。
その勢いのままサツキ目掛けて跳躍。
しっかりと両腕で抱きかかえたサツキと共に、地面に倒れ込んだ。
少し遅れて、と言っても一瞬の間しか空いていないが、ガラスが床へと舞い散る。
パラパラという音が鳴り止むまでが、妙に長く感じた。
俺の一連の動きはこのようであるが、俺自身不思議とあまり実感がないのだ。
これは本当に自分でやった動きなのだろうか。
自分で言うのもなんだが、少々人間離れしていたような気がしなくもない。
とはいえ、何とかサツキを守り切ることができた。
これこそまさに男子の本懐。危険を顧みずに身を挺して女性を庇う、かっこよくて一度やってみたかったのだ。そのためには自ら死地に赴かなければならないが、それは結果的に乗り切ればいい話。
って、俺はいつから結果論主義者になったんだろうか。リスクヘッジは行動理念の基本にあると思っていたのだが、サツキとかいう美少女の放つ毒気にあてられたか。
「あ、あのぅ、弥生君……」
はっと意識を現実世界に戻すと眼前にホームランボールはなく、代わりにサツキの可憐な顔があった。
思い返せばここまで顔を接近させたことは無かったかもしれない。
一緒に住んでるのにな、なんて。
いや、寝室も別々だし風呂も時間をずらしているから、それは必然ではあるのだろうが。
初めての体験に、俺たちは思わず見つめ合った。
それはもう、まじまじと。
こうしてちゃんと面と向かって顔を合わせたことが無くて、なんだか新鮮な気分だ。
サツキの小さな息遣いも間近で――。
「って、うわぁっ! すまんっ!」
何が新鮮な気分、だ。
しばらく呆けていたようだが、どうやら俺はサツキに折り重なって倒れていたらしい。
謝罪が口から飛び出すよりも早く、俺は飛び退った。
ただしその肝心の謝罪が動揺によって、声の裏返りを伴った恥ずかしいものになってしまった点については、どうしてもやり直しがしたい。
叶うならまたサツキに折り重なって……って、別にやましい意図はないからな?
俺の名誉挽回のためだ。
「……サツキ、大丈夫か? 足とかほら、ガラス、刺さってたりしないか?」
しかしサツキはいつまでも立ち上がろうとしなかった。
床に寝そべり、力が抜けたように天井を見つめている。
ガラス片の付着した足が痛んで立ち上がれない、という可能性も考えた。
だが一目見た限り、その透き通るような肌に血の色は見当たらなかった。
仕方なく、俺が手を引いて立たせてやることにした。
床に投げ出された手を取り、脇の下に腕を回して引き上げる。
それが思いがけず抱き上げる形になってしまったのは、うん、不可抗力に違いない。
そんな心のうちの弁明も、戸惑いを隠せずにもじもじするサツキの姿を見ていたらもはやどうでもよくなった。
余程さっきの恐怖体験が堪えたか。
まあすぐ目の前までボールが迫ってきていたんだし、驚きの余り腰が抜けたのには目をつむっておこうか。
「えっと」
さっきからやたらと顔が赤いサツキが、俺の腕の中で口を開いた。
怖くて血の気が引いた、というのは実際には見たことが無いが、引いた血の気が戻ってきたときにはこれくらい赤くなるのだろうか。
「弥生君、助けてくれてありがとうございました。 さっきの、凄くかっこよかった、です……」
最後の方は消え入りそうなボリュームになりながらも、俺に感謝を伝える。
「こちらこそ。 怪我が無さそうで、本当によかった」
「怪我は無いですが、さっき押し倒された時に背中を打っちゃったみたいで」
「え、まじ? それはごめん」
サツキを守り切ったという高揚感と多少なりとも痛みを与えてしまった申し訳なさとがせめぎ合った結果、僅かに申し訳なさが勝ってすんなりと二度目の謝罪が口からこぼれ出た。
それに対しサツキはいいんです、とちょっと首を横に振ってみせてくれた。
なんと優しいことか。
「――盛り上がっているところすまんが、来客のようだ。 一応言っておくが桜木、手を離しておいた方が身のためだと思うぞ?」
部長の声が背に浴びせられてようやく、というか初めて俺の腕がサツキの体に回されていることに気が付き、拘束を慌てて解いた。
刹那、扉が開け放たれた。
「窓を割ってしまい申し訳ありませんでし――って、女王じゃねーか!」
「それが謝罪に来る者の態度か! もう一回だ!」
部長は一喝した。
「ひっ……申し訳、ありませんでした!」
出会い頭に怒声を浴びせられると思っていなかったのか、彼らはビクッと肩を震わせた後、慌てて頭を深く下げる。
「「申し訳ありませんでした!!」」
練習試合を切り上げて駆けつけてきたらしい野球部の面々が、扉の向こうから顔を覗かせていた。
急いで来たからか、手にはバットやグローブが、外されずに残ったままになっている。
先頭で挨拶をした部員は二年生らしく、部長のことを女王と呼んでいたことから二人は顔見知りであるらしい。
それよりも、春崎先輩が女王って……自由奔放に振る舞っているのはこの部活内だけではないのか……?
「桜木、ボールを返してやれ。 もうここには来ないだろうからな」
野球部は俺たちに謝罪をした後、職員室に備品の損壊について報告と相談に行くのだろう。
そしてこの窓の後始末は教職員の仕事。
つまり野球部はここを立ち去った後、もう二度とここへ戻ってくることは無いのだ。
なら素直に渡してやる他あるまい。
キャッチしてからずっと右手に握られていたボールを下投げで放った。
それを受け取ったのは、どこかで見たことのある顔だった。
「あ、お前ら。 サクジョーじゃねぇか」
「何だよサクジョーって……」
「おい桜木、こいつ知り合いか?」
知り合いも何も、こいつはただのクラスメートだ。
顔は知ってるが残念ながら名前は思い出そうにも思い出せん。
いや、確か中村……中島……いや、中野……だったか。
そう、こいつは中野だ。
そういうことなので、中野のことを俺はよく知らないのだ。
いくら聞かれても答えようがない。
「まあ、知り合い……みたいなものです」
クラスメートという立場に免じて、曲がりなりにも知り合いであるということにしておいた。
「それで中野、サクジョーってなんだよ」
「中川な」
中野改め中川は、大きくため息をついた。
「これだから九条一途はダメなんだよ。 クラスのことを何も分かってない。 お前ら二人のことをサクジョーって茶化してる……じゃなくて、祝福してることも知らないんだろ? ったく」
中川の本音が非常に見え隠れしたぼやきだったが、声音が物語るに彼は大層ご立腹であるらしい。
名前を間違えられただけでそこまでになるとは思いもしなかったが。
しかし、四月もまだ半ばを過ぎたくらいである。
クラスメートの名前を間違えずに全員言える方がむしろ少数派ではないだろうかという反論が浮かんだが、口は噤んでおいた。
なぜならば――
「おい小童、お前はこいつらの何を知っている?」
代弁者が息つく暇も無く名乗りを上げたからだ。
部長は言う。
「この桜木という男は九条目掛けて飛んできたその球をキャッチした上に、飛び散るガラスから九条を守ってみせたんだ。 立派なものだろう? それに比べてお前は何だ。 その勇姿を称えるどころか茶化す有様ではないか」
高圧的な説教に、野球部一同が凍り付いている。
「お前はうちの桜木の、何なんだ?」
それはもはや、宣戦布告にも等しかった。
二年の先輩が彼女を女王と形容していた理由が何となく分かった気がする。
もし俺が中川の立場だったら……この威圧感に耐えきれずにお茶を濁すため走り出していたことだろう。
「お前はまず言わなきゃならんことがあるだろう? ホームランを打ってごめんなさい、とな」
「あ、いや、春崎さん? それは僕が――」
「私が話しているのはお前ではない」
「ハイスミマセン」
「そこの二人に言え。 怪我させかけてごめんなさい、とな!」
「は、はいっ! 怪我させかけてごめんなさい!」
部長は潮時と判断したのか、詰めの一手を打った。
「よし、ここにもう用はないだろう。 さっさと去れ」
その一言で彼らは金縛りが解けたようにどっとへたり込み、やがて逃げるように走り去っていった。
蛇に睨まれた蛙状態とは真にこのことを言うのだ、と俺は思い知らされた。
「ふむ、こんなものでよかったか?」
「まあ、はい」
「お前が浮かない顔をしてたんでな、だが少しやり過ぎてしまったようだ」
やり過ぎどころではない。
彼らはあまつさえ漏らしてしまわないかという勢いだった。
廊下で光っているのは、流れ落ちた大量の冷や汗であると信じたいものだ。
ちなみに俺が浮かない顔をしていたのは、名前をニアミスとはいえ当てられなかったからなのだ。
そのせいで中川が部長の怒りの鉄槌を食らったと思うと、無性に涙が溢れてくる。
「確かに、これは女王ですね。 そういう異名があるんですか?」
サツキは気付けばいつもの調子に戻り、何事も無かったように部長に尋ねる。
「……私は別棟の女王と呼ばれていてな。 ここを根城に敵対勢力を潰しまくっていたら、いつの間にかそう呼ばれていたんだ」
別棟とは二棟の校舎とは別に建てられた、グラウンドの東側にある一回り小さなこの校舎のことだ。
ほとんどが空き教室で、この普通部くらいしかここを使用していないらしいとは薄々感じていたが……。
まず敵対勢力とは何なのだろうか。
この学校にはそんな物騒な派閥闘争があるものなのか?
数日この学校で過ごしてきたが今のところ穏やかな様子しかなく、どういうことかさっぱり分からん。
「まあそれはどうでもよくてな。 そのガラス、危ないだろう?
教室を変えるぞ」
「変えるって、どこに?」
「隣だ。 それとも何か希望があるか?」
平然とそう言い放った部長のその言葉に、俺は言葉を失った。
それはサツキも同じであるらしい。
ちょっと振り返るとサツキは目を見開いて立っていた。
「それって……部室の変更とかって普通、申請しなきゃいけないんじゃないですか……?」
「その必要はない」
部長は俺の、俺たちの懸念をあっさりと否定した。
「なんてったって、普通部の活動場所はこの別棟全てだからな。 部室の変更も自由だ。 そういうわけだ、荷物持って隣行くぞ」
こうも軽く凄いことを言ってのけるとは、俺はこの人のことを甘く見すぎていたのかもしれない。
今や、普通部に入部したことへの後悔はもはやゼロに等しいほどに消え失せた。
代わりにこの春崎白音という人への興味が物凄く湧いてきた。
もちろん、この人といるなら送る高校生活は茨の道となるだろう。
だが、俺の穏やかな高校生活というものはサツキと共にいる時点で失われている。
だから問題ない、というわけではないが、少しくらいこの人の送る高校生活というものを見届けたくなった。
「……待てよ? ってことは、部長は事実上の別棟の女王?」
「ですね。 実際にこの棟を支配していますし」
「教員も実は結構手を焼いてるんじゃないか……?」
「案外そうかもしれませんね」
意外でもなんでもないが、部長がこの部活の外でもあの調子ということは、もしかすると相当な問題児なのかもしれない。
というのは、まあ一緒に部活をしていれば分かりそうなことなので、彼女から何か言ってこない限りはこれ以上触れないでおこう。
「でも部下は普通部の俺たちだけか。 寂しい女王様だな……」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、何も。 それより部長――」
なんて無駄口を叩きながら、俺はもうボールは見たくないなと思った。
部長の説教も込みで散々肝を冷やして、すっかり参ってしまったらしいのだ。
頭では平生に戻ったつもりでいるが、心臓の鼓動がまだ収まらない。
だから、どうかボールなんて金輪際、いやせめてここ一ヶ月は見ることがありませんように。
そう願いつつも、窓の向こうではボール状の夕日が地平に沈んでいくところだった。
数日後。
体育の授業はようやくオリエンテーション期間を脱し、最初にやる種目が発表されることになった。
グラウンドの一角に集められ何か何かと待ち構える俺たちの前で、体育教師がついに口を開く。
「最初にやる競技は、そうだな……ドッジボールだ! ドッジボールをやることにしよう!」
そういうことなのだ。
俺はボールに何かと縁があるらしい。




