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20話 ネコと日常

 だからといって授業を受けないわけにも行かない。朝にネコの大洪水を目にしたとはいえ、被害に遭ったはずの下の階の住民たちはいたって普通の暮らしを送っており、嘘のような静けさとそこに響くチョークの音を耳で感じながら、俺は精神統一を胸に誓ってひたすら手を動かした。

 高橋を一度問い詰めはしたが、腹痛で遅刻というのは本気で言っているらしく、顔に浮かぶ真剣さは未だかつて見たことがないものだった。ということはあの高橋は何だったのだろうか。今時ドッペルゲンガーが一人や二人いてもおかしくはないが、屋上からやってくるのは宇宙人の擬態か何かなのだろうか。時にドッペルゲンガーに触られるとオリジナルが乗っ取られるという都市伝説もある。高橋のドッペルゲンガーが校内に残っているとなると、高橋の身に危険が迫っているのは自明だ。


 そうしてサツキとも相談して一緒に遠目に監視していたのだが、特に何事もなく六限目終了の鐘が鳴る。


「サツキ、今日部活はどうするんだ?」

「行きます。弥生君ももちろん行きますよね?」


 俺はその質問には答えず、代わりにその向こうを見る。


「なら、そうだな、一ノ宮。放課後暇だろ?」

「う、うん……用事も特に、無いけど……」

「じゃあ頼む。サツキを普通部まで送ってやってくれ」

「ちょっと待ってください。まさかの送迎係ですか」


 サツキが話に割り込んでくるが、残念なことにその通りなのだ……。サツキは自分が世界の命運を握っていると知らないからそんなことが言えるんだろうが、こっちは呑気なこと言って無配慮でいられる立場じゃないんでな。


「本当は俺が付き添ってあげたいが、俺は委員会の一発目があるんだ。普通部まで行けば春崎部長がいるだろうし安全なはずだ」

「弥生君?この学校にスナイパーでもいるんですか?」

「いないが」

「セキュリティポリスが必要な程この学校は危険なんですか?」


 そう言われて俺は真っ先に、別棟の窓をかち割って飛んできた野球ボールを思い出した。あれは俺が身を挺してサツキを庇ったから、俺が窓ガラスを被弾するだけで済んだんだっけな。


「ほら、ボールが急に降ってくるかもしれないだろ?危ないじゃねぇか」

「そんなの聞いたことないですよ!一人でいけます!」


 逆ギレだ。これは明らかに拗ねている。


「とは言っているが一ノ宮、一応頼む」

「分かった」

「分からないでください?!ねえ一ノ宮さん、おかしいと思わないんですか?!」

「いえ、別に……。友達なら普通にやると、私は思う……」

「と、ともだち……」


 友達と自分で言う分にはなんとも思わないが、人に言われると気持ちのいい言葉だ。言われて嬉しい言葉ランキング第一位が「好き」ならその次くらいに食い込んでくるんじゃないかと思う。サツキもその甘美な響きに乗せられて、只今絶賛御機嫌急上昇中らしい。顔のニヤつきが止まっていない。


「い、いいですよ一ノ宮さん。行きましょう」


 俺はボソッと「チョロいな」と呟いた。


「――何か言いました?」

「いえ」


 こういうのを聞き逃さない辺りは流石のサツキだ。部分的にかなり目ざとい。

 しかし、サツキはたまにこういうところがある。というのは、稀に感情がオープンになる時があって、その時は褒めればすぐ言い包めることのできる、いわゆるチョロ属性が付与されるのだ。なので文字ってチョロツキとか言えば今にもメキシコに亡命しそうな革命家になりかねないので、この言葉は胸の奥底に仕舞っておく。


「じゃあ俺は委員会の集まりに行ってくるから。終わったら普通部の方に顔を出す」

「絶対に来てくださいよ?」

「そんな念押ししなくても行くって」


 帰るときは一緒に帰らなければサツキの身が危なくなるかもしれないし、それにある筋の人たちに怒られるしな。何度か一人で帰ったことがあったが、あの時は大変だった……。


「ところで委員会って何ですか?」

「お前寝てたのかよ。前期と後期どこ担当するとか決めただろ?」

「いやそれは知ってますけど。私が聞きたいのは弥生君の入った委員会です」

「……保健委員だ」

「保健委員会に仕事ってあるんですか?」

「それは失礼だろ」


 衛生面にルーズなサツキは一ノ宮に何とかしてもらうことにして、俺はさっさと委員会の集合場所の方に行ってしまうことにした。


 そして十数分後。


 ……。

 本当に仕事無かった……。何なら人手が多すぎるとか言って解雇されてしまった……。

 そしてとぼとぼまた来た道を戻る。


 ま、まあ、副委員長が後で、落ち込む一年生たちに「来たいときは好きに保健室に来てくれ」とフォローになってるか分からないフォローをくれたし……。というか、人手が余りすぎているならそもそも募集かけるなよって話だが、クラスごとに固定の募集枠が決まっているそうなので不可抗力らしかったのだ。

 それはいいとして、解雇されて意気消沈した俺は保健室という第二になるはずだったホームを失い、第一のホームである別棟に足を向けた。



 んで、はてさてどういう訳か、別棟の前でお出迎えをしてくれたのは今日何度も顔を合わせたあのネコであった。俺にケツを向けて、尻尾をゆっくり左右に振りながら中へと入っていく。


「馴染んでんなぁ」


 貫禄というやつだろうか。堂々たる歩きっぷりは登校初日の新入生のものでは一切なく、どちらかと言うと教師歴数年のベテランのものである。まるで何度も通ったことがあるかのように、ネコは迷いなく別棟の奥へと進んでいった。


「おい待てよ」


 しかしどういう訳か、俺にはこのネコが人の言葉を解することができて、返事はあるはずがないのに俺が歩けば歩き止まれば止まり、何か尋ねれば振り返ってくれるような気がした。そう思ったのは多分、さっき俺の眼を射抜いた目に知性の光が宿っていた気がしたから。


「……はぁ、俺は何やってんだろう」


 ネコに誘われてあっさりついて行くなんて、そんな男子高校生は一体どうなんだろうか。こんな様子では道端でお色気を仕掛けられたら十秒と持たず陥落しそうな気もするので、先行きが不安だ。……いや、これはネコだ。ほいほいついて行くにしても、そのベクトルが違う。

 自分で自分に言い聞かせつつも、もう一方ではこのネコにある一つの疑問を抱いていた。


「なあお前、朝のあれはどうやったんだ?分身したのも流石に俺の見間違いじゃないと思うんだが」

「……」

「まあ、答えねぇよな。そんなぽんぽん不思議なことも起こるわけじゃあるまいし」


「……な〜お」


 まるで俺の言葉に返事をしてくれたかのように、ネコは真っ直ぐ前を見据えたまま一度だけ鳴いた。



「おう桜木、委員会と聞いていたが随分と早かったじゃないか」


 机や椅子がまばらで雑然としたいつもの教室には、珍しく単語帳片手に勉強に勤しむ二年の春崎白音がいた。

 高二にして普通部の部長となった彼女は「いかなる時もいつも通りの日常を」を理念にこの教室でやりたい放題やってきたが、電気ケトルをカバンに忍ばせて持ってきた時もボードゲームの見本市を開いた時も室内ピクニックを敢行した時も、絶対に勉強はしていなかった。だから俺は、部長は勉強というものをこの空間に持ち込みたくないのだなと勝手に思っていたのだが。

 そしてもう二人、サツキと一ノ宮は二人仲良く赤みがかり始めた空を見ながらお絵描き対決をしているらしかった。この温度差に俺は何と言えばいいのだろう。まるで水蒸気と氷だね、とでも形容すればいいのだろうか。


「部長は英単語の勉強ですか。珍しいですね」

「定期テスト三週間前なのだ、当然だろう?」


 何を当たり前のことを、と涼しい顔で言うのだが、ちなみにまだ試験三週間前である。そんな俺の心を読んだのか、


「手を付け始めるのは早すぎるに越したことはない。君も覚えておきたまえ」


 なんて釘を差されてカバンを落としかける程に狼狽えてしまった。


「勉強なんてどうせ直前にならんとしないんだから、こまめにやって未来の私を楽させてあげた方が合理的だろう?」


 ついでにその言葉を、お絵描きに勤しんでいるそこの二人にもそっくりそのまま言っていただきたいものである。教室に入ったばかりの俺の顔をまじまじと見つめながら言うことでは少なくとも無いはずだ。


「はぁ……」

「ふむ、そのため息は一体どういうため息なのかな。先輩として一つ聞いておこうじゃないか」

「いえいいです」


 そのため息の元凶本人による申し出をきっぱりと断ると、俺はひとまずカバンを教室の隅に置いて一息ついた。相変わらずの女王っぷりで、話していて退屈することは無いのだが間が空けばどっと疲れが押し寄せることが多い。


「って、あのネコはどこだ?」


 ほんの気の緩みからか、ふと目を離した隙に見失ってしまう。野良猫を見かけてふと目で追うも瞬きしている間に路地裏に入られて見失ってしまうことはよくあるが、それと同じパターンだ。猫というのは大概すばしっこくて困る。

 まあ、野良猫に逃げられたとて何も困ることはないのだが。


「ネコ?これのことか?」


 俺の呟きに答えたのは部長。それはまるで、神出鬼没のあのネコの行方を知っているかのようで――


「え?」


 かと思えば彼女は本当に行方を知っていた。単語帳を持つ腕の中に例のネコは包まれていたのだ。しばらく寝ては爆走しという忙しない大移動を絶えず行なっていたのであろうことを考えると、部長の膝に綺麗に収まっている奴は別の個体じゃないかと疑わざるを得なかった。


「なんでそんなところにいるんですか」

「私がここの鍵を開けた来た時にはもういてな。どこかから入り込んだのだろう。勉強を始めたら膝に乗ってきたからこうしてずっと寝かせているんだが、そろそろ足が痺れ始めてきたな」


 にわかには信じ難いが、しかし姿形も俺の知っているネコとそっくりそのままなので、きっと同一個体なのだ。だが部長は何か気になることを言った、そんな気がした。


「しかしこれを知っているのか?そんな口ぶりだったが」

「ええ、朝見かけましたから。というか、家の前にいたんですよ」

「家の前?九条も似たようなことを言っていたが、それ流行ってるのか?」


 部長が首を傾げたのを見て、そういえばサツキとの同居のことは話していなかったのを思い出す。だが結局話しても何にもならないしむしろ根掘り葉掘り聞かれて面倒事になるかもしれないのでしらばっくれることにした。


「流行ってる……らしいですね。玄関のドアを開けて野良猫が寝てたら今日の運勢絶好調、みたいな」

「ほう。占いとは面白い」

「ウケたようで何よりです」


 と言いつつも、部長の目はいつもと変わらず凍てつくような冷ややかさを孕んでいた。ちなみに本人は単に自分の目つきが悪いだけだと断りを入れていたが、俺にはそうは思えない……。

 そこでネコはようやく目を覚ました。大きな欠伸とともに一つ伸びをする。その間抜け面が完全に寝起きのものであったのは、数々のドラマを成功に導いてきた名俳優の名演技そのもの。一度外に出てきていたのを知っている俺は、わざとらしいなと思いながらぐーっと背中を伸ばすネコを眺めた。



 施錠し鍵を返さなければならないからと、部長と別れた帰り道。一ノ宮とも家の方向が違って別れることとなり、サツキと二人でいつもの道を歩く。

 しかし、今日はただ二人だけという訳では無かった。


「なあサツキ、あのネコはいつまでついてくる気なんだろう」

「もうずっとついてきそうですよね」


 ちらりと後ろを振り返ると、部長に非常に懐いていたはずのネコが何故か俺たちに付き従っていた。


「春崎部長の膝の上であんなに気持ち良さそうにしていたのに、どうして私たちなんでしょうか」

「サツキもそう思うか」

「ええ。ついてきても何もないのに、不思議です」


 どうやらサツキも俺と同じ考えらしい。確かに今日はあのネコとよく顔を合わせたが、だから後を追ってくる理由にはならない。でなければ、あのネコは相当チョロい勘違い野郎だということになる。数回目が合っただけでほいほいついてくるとはな……。


「しかし、こうして見ると案外可愛いですね」


 今度はサツキと一緒に後ろを振り返り、その言葉に同意した。


「家までついてきたら飼ってもいいですか?」

「……」


 その言葉には、即座には同意しかねた。いきなり飼う?お前の方が一目惚れしてるチョロい勘違い野郎なんじゃねぇの、という言葉は流石にサツキ相手なのでグッと堪えて、代わりにため息に吐き出す。


「六華がいいって言ったらな」


 と、サツキは目を輝かせてもう一度ネコに視線を送る。こんなことで住処を手に入れたこのネコは、今振り向いたら相当意地悪い笑みでも浮かべてるんだろうな、と背後の景色を空想した。


 もう空の本格的に赤らんできている帰路、ひと気の無い閑静な住宅地を二人と一匹が進んでいく。

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