18話 ネコと朝
「……ネコだ」
「ネコですね」
「どっからどう見てもネコだよお兄ちゃん」
三者三様の言葉で表現されたその丸々と肉付きのあるモフッとした塊は、まさしくネコである。全人類がまさか見紛うはずがない。
「名前はまだ無い、か……」
「野良猫だしね」
「どっかしらの飼い猫って線は無いかな」
「無いんじゃないですか?人んちの前から退く気の無い自由人ですし」
「それを言うなら自由猫だろ」
と辛辣な言い草でネコを見下ろすサツキを窘めながら、俺もやはり、かの小太りネコをじっと見つめていた。
「属性的にはニートなんだろうか。特技は居候――」
「馬鹿なこと言ってないで学校行くよ、お兄ちゃん。ただでさえ今日は委員会やら何やらで忙しいんでしょ?」
いつの間にか脇を通り抜けて自転車に跨っていた六華は、ペダルに足をかけて早く行こうと催促してきた。六華の通う中学校は、ここが学区ギリギリのため自転車で通わねばならない。さもなくば、十分後に通学路を泣きながら走り始めていることになるだろう。
「そもそも俺たちが丸々揃って寝坊したってのを言い忘れんなよ」
「私も正直ビックリしました。弥生君にもこんなことがあるんですね……」
「いつもこんなんだろ。今日はちょっと起きるのが遅かっただけで、それ以外は全ていつも通りだ」
――とはいっても、そのいつもが早過ぎるので時間的にはまだ全然遅くなく、今からゆっくり歩いていっても全然ギリギリのギの字も見えずに校門をくぐることができる。いや、このギがギリギリの一つ目のギなのか二つ目のギなのかで議論が巻き起こ――
「しかし、寝坊したのに朝に余裕があるって、なんか感覚バグっちゃうよな。普段は得られない背徳感でいっぱいだ」
「ですよね、なんか不思議な気分です」
「六華はそうでもないんだけど」
「それはどっちの意味でだ?」
「本当に普段通りだから。いつもこの時間に出てるし」
そう言いつつも、六華は不機嫌そうにしている。いつもは自転車の利用を認められているアドバンテージから余裕かまして、俺たちを送り出した後にリビングで朝の優雅なティータイムを楽しんでいるらしい。それが今日は無かったので、消費し切れなかったフラストレーションが膨らんだ頬に出てしまっているのだろう。
「まあその、なんか悪かったな。上手くアラームが鳴らなかったんだ」
「うん……それは六華もなんだけどね……」
六華も非は認めている。だが、その上で昨日は星を見てて目覚ましの設定を忘れていたなんて、俺は口が裂けても言えなかった。
やがて六華の乗る自転車のカゴに俺のカバン、続いてサツキのカバンが積み重なる。辛気臭くなった空気を変えようと、俺は必死に悪そうな笑顔を作る。
「途中まで送ってくれんだろ?な、六華」
「まあそれくらいの余裕はあるしいいんだけど……」
無理やり強制した感は否めないものの本人から荷物を載せていってもいいという了承は得られた。これで道のりの半分くらいは肩が軽いまま行けると思うと、今日も一日頑張ろうと思えるものだな。……って、俺は出勤途中のサラリーマンかっての。
「でもいいの?潤沢だった余裕もちょっとずつ無くなってってるよ」
「悪いあとちょっとだけ」
「すみません六華さん、私ももうちょっと」
六華が大げさにため息をつき、しかし六華も遠目に加わって眺めているのは、玄関の扉の前から動かないモフモフなネコである。
「……多分その子もうそっから動かないよ?」
「だな。寝息立ててそうな顔してる」
「床材が石で気持ちいいんですかね。スベスベしてますし」
「だといいが、俺たちからしてみればはた迷惑な話だ」
「って言いながら、結局私たちうっとりしてるじゃないですか」
野良猫は寄生虫を多く持っているというが、サツキの言うように俺はその丸いフォルムを撫で回したくなる衝動に駆られていた。寄生虫がいるから、と理性が囁いてくることでなんとか遠くから眺めるだけに踏みとどまれているが、こうしている間にも刻一刻と……。
「……お兄ちゃん、もう少し見てこうよ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
――刻一刻と、ただ時間だけが過ぎるのである。
「癒やしだ……」
「んじゃ、ここらへんでいい?」
早歩きの俺たちをマラソンでよく見る白バイのごとく先導した六華は、こちらを振り返って言う。カゴにぴったり収まっていた俺たちのカバンはコタツの中から出たくない冬の俺たちと同じ気分らしく、取り出そうとすれば角をカゴの網に引っ掛けて強く抵抗していた。
まあ、力ずくで引っ張り出したんだけど。
「おう、見送りありがとうな」
立ち漕ぎで颯爽と去っていく六華を見送りながら声をかけてやると、車上の六華は片手を上げて応える。と、自転車のバランスが大きく崩れた。
「あーあ、片手運転なんかするから」
「もう青切符切られるんでしたっけ?私、テレビで見ました」
「らしいな。お偉方も変な法律作るよなぁ……って」
六華が力強くハンドルを握って立て直したのを見届けて、さあ俺たちもあれに見倣って学校へ行こう、と意気込んだその時。颯爽と俺たちの横を駆け抜けた一塊の物体がそこにあった。
「あれさっきのネコじゃないか?」
「っぽいですね」
過ぎ去っていく背中は灰色に染められ、跳ねるたびに揺れる脂肪は丸みを帯びたフォルムをほんの少しだけ崩して、その姿はどう考えても先ほど目に穴が空くほど見つめたあのネコであった。ただ一つ、どうしてそれ程までに爆走する必要があるのか、という疑問が走り去った後のこの路上に置いてけぼりになる。
「あんな体型でもあんなに動けるんだな」
「ですね。あの姿に勇気を貰う人もきっといるに違いありません」
「どういう意味だよ」
「言葉通りの意味です。あの必死な姿に感銘を受ける人もいると思いますよ?」
「ああ、とんでもなく必死だったな。もう姿が見えないぞ」
人間そんなに必死になれることなんて早々ない。あれ程までに頑張れたら、人間誰だって何にでもなれるさ。
とはいえ、だ。ネコでもそれは同様のことで、おそらく俺たち以外誰もネコの全力疾走というものを見たことがないはずだ。
「となると、あれは今にも化け猫になりかけているネコなのだろうか」
「急にどうしたんですか」
「ただの心の声だ。気にするな」
仮定をすっ飛ばした俺の身勝手な思考の飛躍を間髪入れずに有耶無耶にしようと試みた。ありがたいことにサツキはあっさりと快諾してくれたが、まだ疑問は残り続ける。
「……サツキは何であんなに必死だったんだと思う?」
「さあ」
サツキは歩きながら顎に手を当てて考え込んでから、なんとか答えを絞り出したかのように苦しそうに口を開いた。
「水をかけられたから、ですかね……」
然れどもその真相や、知るもの無き。
……あ、これ係り結びじゃん。
サツキに無理難題を吹っかけたのは悪かったと思っている。しかしあの時、喉の奥で静かに笑った後に真面目に正論を返したのは仕方ないことだったと思うのだ。
通学路にて同じ制服の男女が徐々に増えつつありながらも、サツキは俺の横を離れないくせにあれから一切押し黙ったままだった。
「ねえサツキさん。そろそろ口を利いてくれてもいいんじゃないですかい」
「やです」
「笑ったのは謝るから」
「その後のも」
「マジレス返したことも、謝る。だから――」
「それでも、やです」
サツキにぷいと顔を逸らされては、俺はもはやご機嫌を取ることしかできない。だがよく考えれば、こうなってしまった乙女心を扱う術を残念ながら俺は知らない。
知ろうとしてこなかった昔の俺を恨み、ひとまず機嫌が回復するのを待ってみることにした。すなわち、ここに真に沈黙が下りる。
「………………えっと」
長い間を空けて、何か言いたげなサツキが静けさを破った。校門も実はさっき通り過ぎていたのだが、他の生徒たちの喋り声で満ちる中今の今まで両者共に一言も口を利かなかった。なのに隣同士で仲良く歩いているのだから、きっと俺たちの姿は奇異なものに映ったに違いない。
「私、本当に水かけられて慌てて走って行ったのだと思ったんですよ」
静けさを破って発した一言目、それは弁解であった。
「だろうな。あの苦しそうに答えを捻り出している顔を見てれば分かる」
「……だから笑ったんですか?」
サツキは問い詰めるように聞いてくる。どうやら割とご立腹らしい。そして俺は即座に否定する。
「いいや、サツキが面白かったんじゃあない」
「――じゃあ」
「あそこで丸まってたネコに水をかけて追いたてた誰かさんのことを想像したら、なんか笑えてきてな」
俺が笑ったのは、単にそういう理由なのである。あんなに必死な顔をして爆走していたネコの後ろに無表情でホースを構える近所の気難しいおばちゃんが仁王立ちしていると思うと、笑いを堪えきれなかった。そしてこのくだらない笑いを上書きするために正論で誤魔化した、というわけだ。
「なんだ、そういうことだったんですか」
「そうだぞ。決してサツキのことを馬鹿にしたわけではない」
「だと思いました」
「にしては大層怒っていらっしゃったように思うんですけど?」
「い、いえ、気のせいじゃないですか……?」
「いや無理だぞ。十分弱も口を利いてくれなかったって実績があるんだからな」
えへへ、とサツキは照れながら頭を掻いた。いや照れんなよ、と俺は内心ムッとする。
なんて言っているうちに、昇降口に辿り着いた。朝礼二十分前、全くもって遅刻のチの字も感じられない余裕の登校である。




