16話 人はひとりで生きられぬ
人間という生物は基本的に一人では生きていけない。生まれた瞬間は親が必要不可欠だという生物的な宿命は考えないにしても、生みの親であれ赤の他人であれ、誰かに頼って生きることが人間のお家芸なのである。
例えば狼なんかだと、一匹狼という言葉通り群れに属さずとも生きることができる。サバンナを鋭い目つきで彷徨う孤高のライオンも思い浮かぶ。しかし鳥は、小動物は、魚は、たいていが群れを成して生活する。人間もやはり、そうした自然の摂理に組み込まれているのだ。
ただし群れを成す動物と人間との境界にある明確な壁がその目的にあるという点で、きちんと線引きをしてやらねばなるまい。
これらの動物は肉食動物に対して被食者となっており、大家族を作るネズミや巨大な団子を作るイワシには当然ながら天敵がいる。天敵から身を守るため、仲間を集めて自分を大きく見せようとしているのだ。あるいは餌の収集効率を高めるためなど他に理由があるかもしれないが、考え始めたらキリがないのでこれ以上の深追いは止めておく。
対して人間は、明確で合理的な目的があるのではない。一人では何かをする能力に乏しいのと、それ以上に、ただ単に寂しいからなのである。常に誰かに頼っていなければ、自分の生存それ自体に降りかかるプレッシャーに一人で耐えることができない。結局内面にもどこかしら弱さがあるのが人間なのだ。
それは頼られる側も同じで、仲良し同盟と称した関係は次第に共依存に発展していく。
――今俺が見ているこの光景は、その過渡期の貴重なワンシーンなのかもしれない。
俺が頬杖を突きながらどうしてこんなことを考え始めたかというと、近頃日課になりつつある人間観察をしていてふと思ったからなのである。いや、もちろん俺が心を許せる友人というものを持ち合わせていないのが理由というわけではなく、四月の最初を思い返せば明らかにクラスの雰囲気が変わりつつあったのが目についたのだ。
入学したての俺たちは、まあ当たり前と言えば当たり前だが、話すのも躊躇する、それどころか名前すら知らない関係であった。同じクラス、という肩書きでしか互いを結びつけるものがない、所詮それだけの関係。
半月もすれば、必然的に隣の席のやつくらいとは関わらざるを得なくなる。次は前後、その次は同じ生活班。そうして休み時間に教室に点在していた輪が徐々に人を吸収して大きくなっていくのを、教室の比較的後方のアウトレンジで俺は好奇の目で見ていたのである。
「仲良しグループ、やっぱできつつあるんだなぁ……」
呟く俺の脳裏に浮かぶのは一つの言葉—―出遅れた……。
サツキを守ることに躍起になり過ぎて、まだクラスメートの過半数とは未だ言葉を交わしたことがない。観察だけは続けているので人となりはよく知っているんだがな。
だから、俺は今この状況を馴れ合いと表現してひがむことくらいしかできないのだ。後は、徐々にクラスから減りつつあるぼっち同盟のメンバーを見て目を細めることくらいしか。
四時間目が終わり昼休みが来たことを告げるチャイム。それと同時に教室に走っていた緊張が弛緩し、すぐにまた別の緊張が走った。号令がかけられる。そして新たな緊張の根源たちは廊下へと慌ただしく走り出ていく。
「購買のパン争奪戦か……相変わらず忙しい奴らだな」
昼休みの始まりはチャイムではなく全力で廊下を駆け抜ける男子たちのけたたましい足音が告げるのが、このクラスでも恒例となりつつある。二年三年でもお馴染みで代々引き継がれてきた伝統らしく、この前見に行ったら購買は人でごった返していて、軽率な行動だったと自分を恥じ大人しく帰ったものだ。にしても授業中は静かだったこの学校が、休み時間に入った途端いきなり生き物みたいに動き始めるのだから面白い。
そんな中、椅子に再び腰を下ろした俺は黒板を見て小さく舌打ちした。
「ああ、また消された……」
普通教師は授業が終われば黒板をそのままにして出ていくものだと思うのだが、うちの数学教師は一味違っており、最後は黒板をまっさらにしてから職員室へ帰っていく。板書が間に合わないと、俺のように間抜けな嘆息をする羽目になるのだ。
「立つ鳥跡を濁さず、か。爪痕は残してるのに言えた口なのか?」
あの数学教師は初回授業のオリエンテーリングで、立つ鳥跡を濁さずを座右の銘にノミネートしていた。それは構わないのだが、消すとチョークの粉が舞って前列の生徒は弁当も食べられなくなり、跡どころの話じゃなくなっているのにそろそろ気付いて欲しいものだ。四時間目でないときは黒板を消す担当の副日直にとってはありがたい話なんだがな。
恨みをありったけ込めた目で出ていく彼を見送った後、またノートに目を落とす。最後の数行だ。たった数行なのだ。悲しきかな、そこだけ書けずにぽっかりと虚無ができている。
「なぁサツキ、ノート見せてくれ。最後のところだけでいい」
弁当を机上に出しかけていたサツキに俺は待ったをかける。いつの間にかノートも筆箱も仕舞われており、机の上は目の前の黒板のようにまっさらだ。
ちなみに俺の席の前後は購買に走っていってもういない。左は窓だ。座ってしまったのにもう一度立つことはしたくないので、自然とサツキに頼ることとなる。
「えっ」
声を掛けられたサツキは、なぜかびくっと肩を震わせた。
「……どうした?」
「い、いえ。その、ですね」
歯切れが悪く、妙に視線も泳いでいる。嫌な予感がした俺は、おずおずと差し出されたノートをパラパラとめくってみた。
「……お前これ、最初の十分くらいしか書いてなくないか?」
「難しくて途中からぼーっとしてました」
「小学生か」
開き直るサツキに思わず真顔で返してしまった。
「いや、だって、例題とか言って大学入試の問題を解き始めたんですよ?そんなの絶対無理ですもん」
泣き言をいうサツキであるが、残念なことにそれには俺も同意している。
「確かに今の知識で解ける問題だったが……あれは無理だな」
「で、諦めました」
「爽やかに言ってくれるなぁ」
ちなみに俺の板書を写すのが遅れたのは、その大学入試の問題が今の俺たちにとって例題たり得るのか考えていたからだ。結論、俺たちにはまだ早すぎる。
癖の強い教師だとは理解していたが、ここまでとなるともう数学は手に負えないかもしれないな。
しかし困った。中間試験も近づいてきているこの時期に、授業内容が欠けたままなのはあまりよろしくない。まあまだ三週間ほど先のことだが、最初は難易度も分からないのだし万全の準備をして挑まなければ。
ということなので、
「仕方ない、弁当はちょっと我慢するか……」
食事に移行するのは今しばらく我慢し、ノートを写させて貰いに行くため遠征する決断をした。しかしそう呟いたタイミングで背後から声がかかる。
「どっか用事?」
ひょこっと横から顔を出してきた人物、それは塩野雪であった。片手には小さめの弁当箱、もう片方には紙パックのジュース。塩野を男子高校生だと識別する方法は着ている制服くらいしかない、相変わらずの風貌である。昼の日差しを浴びて輝いているせいで余計にそう見える。俺にとっては眩しい存在であるのが塩野雪という男なのだ。
「おお、そうだ。塩野、悪いが数学のノートを写させてくれ」
「数学?うん、いいよ」
塩野は即答すると、自分の席からノートを取ってきて俺の机にそっと置いた。
「助かる。お前は俺の命の恩人だ」
「そこまでなの?」
くすくす笑いながら、塩野は自然な動作で俺たちの近くに椅子を持ってきた。にしても最近塩野との絡みが増えている気がする。嫌な気はしないのだが、人はこうやって仲良くなり距離を縮めていくんだな、というのを身をもって体感できているのが不思議な気分だ。
塩野の渡してきたノートを開いてみる。
「字綺麗だなお前。俺からはもう言う事ねぇよ」
「えへへ、ありがと。テニス部って意外と待ち時間多いから、暇な時に字の練習してたんだ」
「……顧問に怒られたりとかしないのか?」
「うちの部、結構緩いから。桜木くんも入ってみない?兼部できるよ」
「悪い、放課後は春崎先輩のお世話をしなきゃいけないんだ」
「あー、あの怖そうな人。僕も一緒に行きたいけど、今日は練習が……」
残念そうに俯く塩野を横目にページをめくっていくと、目当てのページが見つかった。
「塩野はちゃんと書いてるんだな」
「うん、写してるときはとにかく間に合わせなきゃいけないし、必死に書いてるよ。授業終わってからいつも復習してる」
「復習してるのか、偉いな」
「むぅ……」
自分に出る幕が無さそうなのが退屈なのか、隣でサツキが不満そうな声を漏らした。
「いやだってお前、ノート書いてないだろ。逆に塩野に写させてもらえよ」
「いえいいです」
「良くはないぞ」
「私は弥生君のを写すので」
変な拘りを掲げてそっぽを向き、サツキは弁当箱を広げ始めた。
「そういう問題なのかよ……」
ムキになっているサツキに呆れつつもノートを書き写し終えた俺は、塩野にノートを手渡した。本当に塩野のノートを写さなくていいのか念のために聞いたが、サツキはぶっきらぼうに返事をする。どうやら本格的に拗ねているらしい。
そんな俺たちを眺めながら、塩野はくすっと笑った。
「なんかこういうのいいね。クラスメイトだな~って感じする」
「急にどうしたんだ」
「ううん、なんとなく。入学した頃ってもっとみんな他人行儀だったでしょ?」
塩野はほんの数時間前に俺が考えていたのと似たようなことを言った。
「まあ、慣れてきたんだろ」
「だね。でも、僕は嬉しい」
確かに今はこうして自然に集まって話している。最初の頃ならノート一つ借りるだけでも妙な緊張感があった気がするが、今は全くそんなことはない。それどころか賑やかになって、むしろ好ましい雰囲気にさえなっている。
「だって、桜木くんとか九条さんとも一緒に喋れてるから」
「おう、俺もこの席に座れてて嬉しいぞ」
「最初っからじゃん」
塩野のツッコミに、俺は口元を軽く綻ばせた。こんなつまらないありきたりなボケでも拾ってくれるクラスメートがそばにいる、それだけでも確かに居心地の良いクラスになっているのかもしれないな。
俺が弁当箱を広げ始めると、塩野も同じように持ってきた弁当箱を膝の上に置いた。軽く合掌して弁当のフタを開けて食べ始めようとすると。
「日曜日は楽しかった、ね」
塩野の言葉にサツキが箸を動かす手を止めてピクッと反応する。
「ああ、昨日!服選んでくれてありがとうございました!」
「いえいえこちらこそ。って言っても、ほとんど桜木くんが決めてくれたし、僕何もしてないんだけど」
「そんなことはないです!肩にかけるポーチ?みたいなの、選んでくれたじゃないですか!」
「それは服、なのかな……分かんないけど、気に入ってもらえたみたいで何より」
なんだろう、サツキと塩野が喋ってるときはいつにも増して楽しそう口を動かしている。まるで同じ趣味を語り合ってる時みたいに熱くなっているのが、心なしか羨ましく感じられた。ここで話に割って入れたらそれは立派な陽キャなのだろうな、と自分の境遇をほんの少しだけ卑下する。まあ、誰しも心の中に負い目の一つや二つや三つ四つくらいは抱えているものであり、後ろ向きになることはないはずだ。うん、それが普通のはずだ。と心の内ではまた悶々とする。
まあそれはそうとして、二人が仲良く話をしているのを聞き流しつつ、やっぱり人は一人じゃ生きられないな、と心の中でサツキや塩野に飾り気のない食事時間の話し相手になってくれたことを感謝する俺であった。




