8話 ある週末の土曜日
昨日のことを思い出すと、放課後の到来を告げるチャイムが鳴った瞬間からあれよあれよという間に最終下校時刻まで時間が過ぎ去ってしまった。普通部一年が六人も一堂に会して、あそこまで賑やかな日常が訪れたのは初めてだし、楽しかったのは事実だ。
だから思うのだ。
「くそ、どうして今の今まで気づかなかったんだ……!」
楽しいことはすぐに過ぎ去ってしまい、肝心なことはその後に思い出す、これが世界の真理なのだろうと。これは友達の話なのだが、友人で同居中の女子を遊びに誘おうとしていたのに部活のゴタゴタがあって、寝て起きるまですっかり話すのを忘れていたというバカな男子がいてだな。
「で、今何時だよ……」
枕元の時計を確認する。カーテンの開かれた窓から差し込む明かりで薄闇に包まれた俺の部屋は照らされ、丁度時計の針がキラリと光った。思わず目が吸い寄せられたのは、光るものに目がないカラス的な習性を俺も持ち合わせていたからだろう。
「いや十時……?」
おやおや、少し寝過ぎてしまったようだ。これはおそらく休日による油断ゆえのもの。日常茶飯時でもないのだが、たまにはこういったことも起こる。
「……明日は早く起きよ」
なんて確実性の一切ない決意と共にベッドを降り、俺はひとまず遅すぎる朝食にありつくことにした。
とまあ、表面上は余裕ぶっこいて取り繕ってはいるが、一応これでもかなり焦っているのだ。ドアノブを掴む手が震える。妹の――六華の機嫌というものはこうして朝寝坊をした時に限っていつも爆発しているのだ。
おそるおそる音を立てないように階段を降りてみると、案の定六華の張り上げた声が突き刺さってくる。さながら打ち上げ花火が横向きに射出されたかのように、寝起きの敏感な耳には大変な声量として届けられた。
「お兄ちゃん!こっそり食卓に着こうって言うんならムダだからね!」
「うげっ、六華……」
「バレたか、じゃないのよ弥生さんや。階段って意外と足音響くんだよ?」
うちの場合は足音というよりミシミシと軋む音に違いないが、そんな補足はどうでもいい。驚きなのは、俺がこんなに遅く起きたにも関わらず六華が予想以上の上機嫌だったことだ。その理由も明白で、リビングではサツキがおしとやかに座って本を読んでいた。サツキの前で出来る妹として振る舞い良いところを見せたいという魂胆が見え見えだ。
「……何か言う事あるでしょ」
機嫌が多少上振れたとはいえ、まだどこか不満そうにしている。妹というのは普通の人よりも距離も近いもので、だからこその難しさというのもある。んで少し沈黙が落ちる。
「起きてきたら最初に言うことだって!」
強くそう訴えかけるので合点がいって、兄妹ノリというか、まあ改めてテイクツーバージョンの笑顔を作った。
「おはよう、六華」
「うん、おはようお兄ちゃん!」
そうして六華は真に上機嫌モードへと化した。
「今日はサツキ、静かだよな」
罪滅ぼしに洗い物を手伝いつつ、声を潜めながらサツキの方を見遣る。いつもの雰囲気とはまた少し違って今日はクラスのマドンナ的な空気感を醸し出しており、俺なんかが話しかけていいのだろうかと若干の躊躇が混じる。何というかこう、神々しいのだ。
「どういう心境の変化なんだろ」
俺の小声の他に聞こえるのは本のページがめくられる音くらいだ。紙をめくるスパンが少しずつ短くなっていくのを聞きながら、やけに読むペースが速いなと思っていると、顎に手を当て思案していた六華は口を開いた。
「拗ねてるね」
「あれで拗ねてんの?!――やべっ」
想像以上の声量を出してしまったことに驚き慌てて自分で自分の口を塞ぐ。
「皐月さん、朝から起きてお兄ちゃんのことを待ってたから」
「それはどうしてだ?」
「……今日はせっかくの休日なんだよ?」
「知ってる。だから俺はぐっすりと寝てたんだが」
「乙女心が分かってないなぁ、お兄ちゃん」
世間話をする奥様方を彷彿とさせる六華の胸板ぺちぺちだが、六華がやると尚のこと可愛らしく見えるのは別に俺の眼が曇っているわけではなく、おそらく全人類がニヤつくのを抑えきれないと思うのだ。上目遣いの六華は一歩踏み出し距離を詰める。そして、耳元に少しでも口を近づけたいのか、俺の体に手を当てて必死に背伸びをする。
「少しでもお兄ちゃんと一緒にいる時間を作りたい気分なんだよ、きっと」
「そういうものなのか?」
「そういうものです。女の子は気分屋だからね」
気分屋、ねぇ……。
俺から離れた六華はえへん、と腰に手を持っていった。
「だからお兄ちゃん、皐月さんに構ってあげなさい」
偉そうに小さい胸を張って、六華は俺に啓示を与える。その頼もしさというのには、全知の神父に人が集まるのに通ずるものがある気がした。
構ってやれという啓示であったが、しかしどう構うのか特に思いつかな……
「そうだサツキ、明日遊びに行かないか?」
「行きます!」
食い気味に答える彼女だが、陽気な雰囲気を漂わせるいつものサツキに戻っていた。
一方俺の腹は軽く小突かれて。
「……お兄ちゃん、明日遊びに行くんだ。ふーん。へーえ」
と、今度はサツキではなく六華が口を尖らせたのだった。急落した機嫌を取り戻すべく経緯を必死に説明し、午前を潰してまで骨を折る羽目になったのは何というか。
気分屋って、難しいな。




