誘拐事件…?
伸ばされた、黒い手袋をはめた手は、シシツキの細い腕に到達する前に、本人によって阻まれた。
「…何の用?」
シシツキは不機嫌な声音で、腕の主に問いかけた。
さり気なく、シキョウを庇うような位置どりをするシシツキから、黒い手の主は、冷静に自身の手を取り戻した。
ピリッとした緊迫感が場の雰囲気を包む。
シキョウは、シシツキの影から全身黒ずくめの男を見て、ハッと息を飲んだ。
「…番犬やん」
番犬。
それは、シキョウの居た奴隷商人に、雇われている、傭兵の事だ。
その仕事は、奴隷の脱走の管理又は、脱走した奴隷の処分。
そして、新しい奴隷の調達。
今回、シシツキとシキョウの前に姿を表したのは、彼の仕事の内容の後半に当たるだのろう。
「シキョウ、下手に動かないでよ…」
「や、でも先生ぇ…」
シシツキは番犬と聞いて、双剣を構えた。
もちろん、構えたのは双剣の姿の朱雀である。
傍目からは、コートの内側から出したように見えるように、細工をしたが、シシツキの意志を反映してかチロリと炎が漏れた。
そんなシシツキを見て、初めて男が声を発した。
「反抗するのは、愚かだ。大人しく着いてくるのであれば、痛い思いはせぬぞ?」
番犬の言葉を、シシツキは鼻であしらった。
その瞳に、不安は一切ない。
あるのはただ、シキョウを守るという意気込みのみ。
「君こそ、俺に勝てると思っているの?それこそ、愚かだよ」
ヒュンとシシツキが朱雀を一振しただけで、朱雀から熱いと言うと生ぬるいほどの熱風が、発生した。
ジリっと、番犬がそれに警戒心を顕にした。
それは、傭兵にとっては、未知の武器。
シシツキでさえ、まだ全てを知っているとは言い難い朱雀だ。
初見の相手にとっては、警戒心を最大にするのは、もはや必然。
しかし、それでも男は怯えなかった。
話し合いは時間の無駄であると判断したのか、無言のまま男はシシツキの懐に飛び込もうとした。
「甘い」
シシツキの手が翻った。
シキョウが認識出来たのは、瞬間に飛び散る火花と、男とシシツキが剣を合わせる姿だ。
早い。
その戦闘は、戦闘経験の無いシキョウには、目で追いきれないほどの速さで行われていた。
ありとあらゆる角度からの攻撃に、壁をも足場とし、動き回る番犬とは反対に、シシツキはシキョウを庇ったまま、一歩も動かない。
シキョウは、2人が剣を合わせる一瞬しか、戦闘の成り行きを知ることが出来ず、シシツキに庇われながら、呆然とシシツキの背中を見つめた。
「…やるな、貴様」
言葉は少ないが、素直に感嘆した様子の番犬に、シシツキは眉を顰めた。
番犬が、シシツキの射程圏外に逃げたことで、1度小休止を挟むことになった。
シキョウが見る限り、どちらの息も一切乱れず双方とも、無傷のまま。
実力は拮抗しているようだ。
…いや。
つうっとシシツキの左腕に流れた血が、シシツキの負傷を、知らせていた。
「よく言うよ。君、まだ余裕でしょ」
「貴様こそ、後衛のくせによくそれだけ動けるな」
先ほどの戦闘の中で、シシツキと番犬は、シキョウの認識できない間に様々な駆け引きを繰り返していた。
その中ではじき出した互いの評価は、強いであった。
ただ、背後にシキョウをかばっている分、シシツキが少々不利な状況であるが。
「それに、その武器はなんだ…?」
「これ?ただの双剣だよ」
シシツキの言葉に、不服なのか、一瞬朱雀がきらめいたが、先程のように、炎は出さなかった。
その返答に番犬は機嫌よくシシツキに剣を突き付けた。
「まあいい。お前が奴隷になれば、その双剣は俺のものだ」
番犬の戦闘狂の雰囲気を敏感に感じ取ったシシツキは、深くため息をついた。
「シキョウ、危なくなったら、逃げてね」
そう言い残し、シシツキは、番犬に向かって地を蹴った。
「チェックメイトだ」
その声に付随して、カランと剣の落ちる音と共に、シシツキが両手を挙げた。
そのシシツキの首筋に剣を突き付ける番犬。
そして、シシツキの背後のシキョウの首筋に剣を突き付ける、黒ずくめの女。
戦闘自体は、シシツキの勝利があと一歩というところだった。
しかし、シシツキは、背後にいるもう一人の敵に気が付かなかった。
シキョウを人質に取られたシシツキは、なすすべもなかった。
それが現在の状況に至るまでの、流れだ。
「惜しかったな」
番犬の言葉に、シシツキは、皮肉気に唇をゆがめた。
「後悔するよ?」
その瞬間、シシツキの意識は、暗闇に包まれた。




