名前を持たない世界
巨大な門の向こうには、不思議な町が広がっていた。
家がある。
道もある。
広場もある。
けれど――町のどこにも名前がなかった。
看板には何も書かれていない。
家の表札も空白。
住民たちも、お互いを名前では呼ばない。
「こんにちは」
「こんにちは」
そんな言葉だけが、静かな町に響いている。
悠真が辺りを見回す。
「ここが、名前を持たない世界……」
ユイが頷いた。
「みんな、名前がなくても普通に暮らしてる」
すると、一人の住民が近づいてきた。
「あなたたちは、名前を持っているの?」
「僕は悠真」
「僕はユイ」
二人が答えると、住民は不思議そうな顔をした。
「名前って……必要なの?」
悠真は少し考えた。
「必要な場合もある。でも、絶対に必要ってわけじゃないと思う」
「じゃあ、どうして名前を持っているの?」
「自分を呼ぶためかな」
住民は自分の胸に手を当てた。
「僕は……自分をどう呼べばいい?」
その問いに、悠真は答えなかった。
代わりに、隣にいた名前を探し続けている影が言った。
「無理に呼ばなくてもいいんじゃない?」
住民が振り返る。
「え?」
「僕も、まだ名前を決めてない」
影は少し笑った。
「だから、名前がない時間がどんなものか、少し分かる」
その言葉を聞いた住民は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕も今日はこのままでいる」
すると――
町の中央にある時計が動き始めた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
ユイが驚く。
「時計が動いた!」
記録者の声が響いた。
「この世界には、名前がない代わりに――」
一拍置いて、声が続く。
「『呼び方』があります」
町の住民たちが、それぞれ相手を見つめる。
「君」
「あなた」
「そっち」
「こっち」
「友達」
「旅人」
名前ではない。
けれど、それぞれを呼ぶ言葉があった。
悠真は気づいた。
「名前がなくても、つながることはできるんだ」
すると、町の中心に大きな空白の石碑が現れた。
そこには、
【この世界の名前】
とだけ書かれている。
ユイが首をかしげる。
「世界そのものにも、名前がないんだ」
住民たちが石碑を囲む。
「名前をつける?」
「つけない?」
「どっちがいいんだろう」
意見は分かれた。
「名前がほしい」
「まだいらない」
「いつか決めればいい」
誰も相手を否定しなかった。
すると石碑の文字が変わった。
【この世界の名前――未定】
さらに、その下に新しい文字が浮かぶ。
【未定であることを選んだ】
町全体が柔らかな光に包まれた。
記録者が告げる。
【第三十八の歴史――名前を持たない世界】
そして、新しい一文が刻まれた。
【名前がないことは、存在しないことではない】
影はその言葉をじっと見つめていた。
「……なんだか、少し安心した」
「どうして?」
悠真が尋ねる。
「僕はまだ名前がない。でも、それでもここにいていいんだって思えたから」
ユイが笑った。
「もちろんだよ」
そのとき――
町の外から、鐘の音が聞こえた。
ゴーン……。
一度。
二度。
三度。
住民たちが一斉に振り返る。
町の外に、新しい道が現れていた。
道の先には、見たことのない門。
その門には、
【第三十九の歴史――呼び方から始まる世界】
と書かれている。
悠真が門を見る。
「名前じゃなくて、呼び方から始まる世界……」
影が一歩前へ出た。
「僕も行く」
ユイが頷く。
「じゃあ、三人で行こう」
三人は新しい門へ向かった。
しかし――
門の向こうから聞こえてきた声は、今までとは違っていた。
「誰か……僕を呼んで」
悠真は立ち止まった。
「今の声……」
影が静かに答える。
「名前を求めているんじゃない」
そして門を見つめた。
「誰かに、自分の存在を見つけてほしいんだ」
門がゆっくり開き始める。
その向こうには――
誰にも呼ばれたことのない存在たちが待っていた。




