吐息
本当に、不思議な感覚だ。
晴天の空は高く澄んでいるのに、その青さが感じられない。
空気が肌を刺しているのは分かるのに、それを寒いと感じない。
鎧や武器の触れ合う金属音、馬の蹄の音、兵達の話し声に指示の声がしているのは分かる。
それでも、私は静寂の中にいる。
ただ、やけに空腹感だけは明瞭だった。
今も、私の手には干し肉がある。
薄い塩味と肉の味がしているのは分かった。
だが、やはり、旨いと思うこともなかった。
「アレクシア様、先行したソラン隊より伝令です。周辺状況の確認が済んだそうで」
馬に乗っていた私に馬を並べて、エリクがそう声を掛けてくる。
私は彼に頷いて返した。
そして、すぐ隣で同じく馬に揺られていたティアに視線を向ける。
「ティア、野営地は予定通りの場所で問題なさそうだが、どうする?」
私の言葉を聞いたティアは、少し妙な表情を浮かべてから
「…あぁ、“夜鷹”からも敵の情報は入ってない。予定通りで行こう」
「よし、分かった」
私はそう返してティアの背から手を離し、エリクに向き直る。
「ソラン隊に伝令頼む。予定通り野営地にする、確保して待機」
「了解しました」
私の指示を聞いて、エリクは手綱を引き、馬をひるがえした。
本当に不思議だ。
報告を聞いた、判断をした、指示を仰ぎ新たな伝令を出した。
しかし、それをなしたという感覚は希薄だ。
口と喉がそう動いた…そんな感じがする。
ふと、手の平に何かの感触の残滓を感じ取って、私は手を見る。
そこに残っていたのは、温もりだった。
…なんの温もりだ…?
……なぜこの温かさだけは分かるのだろう?
そんな考えが脳裏に沸いたのはほんの一瞬で、すぐに霧散する。
私はその手で、馬の手綱をキュッと握りこんだ。
私達は、ゴルダ領を抜け、王都南の王家直轄領を進んでいる。
山間を切り開いて作った軍道で、ザルダー街道ほど広くもなければ整ってもいない。
登り下りは激しいし、クネクネと何度も折れ曲がる。
隊列は前後に長く伸び、進行速度もかなり遅い。
しかしそれでも軍は、粛々と歩を進めていた。
私達の軍はゴルダ領で父様率いる反王政派の解放軍一千五百と、ミコスト男爵家、ハルラド男爵家の部隊を加え、総勢四千五百まで膨れ上がった。
非戦闘員の輜重隊を含めれば、五千を超える。
王都にどれだけの部隊が残っているかは分からないが、バイルエインの伯爵様の動きに対応していれば、かなり手薄になっているはずだ。
ここにきて、ティアが四家を寝返らせ、国軍を包囲して捕虜に取るという選択をした理由が一つ分かった。
国軍は、包囲されて逃げ場を失った。
おそらく、伝令を逃がす暇すらなかっただろう。
王都ではまだ、このゴルダ領の陣地が崩れた報告を受けていない可能性が高い。
もし野戦になっていたら例え勝ったとしても、報告が届いて備えられていたはずだ。
今王都は、こちらに背を向けている。
そう思ったとき、手綱が手の甲に食い込む感触がした。
「…ティア、伯爵様の動きは把握できているのか?」
私はティアにそう声を掛ける。
すると、すぐに彼女は
「あぁ、“夜鷹”を介して、だいたいの位置はつかんでる。ゴルダを出るときにはあっちもディットラーを出たって聞いたから、今頃は目標のハズラン伯爵領まであと二、三日ってとこだろう」
と答えた。
こちらは、王都まであと一日半ほどだろう。
もう、目と鼻の先のはずだ。
「ティア、あれ」
不意に、そう言うミーアの声が聞こえた。
それに反応したティアが顔を上げ、他の皆もそれに続く。
私も釣られて視線を向けた。
葉が落ち、隙間だらけになっている木々の枝々の遥か向こうに色が見えた。
二重の防壁に、尖塔がいくつか。
次の瞬間、はぁっと息が出た。
自分でも分かるほどに、熱い吐息だった。
「あれが、ノイマール王都…」
誰かがそう言うのが聞こえる。
ティアの配下のジーマだろうか?
「さすがに重厚ね…あそこに籠られたら、簡単じゃなさそう」
たぶん、ベアトリスがそう言った。
「守備に就いてた部隊がハズラン領へ向かったのは確認してる。今、どれくらい残ってるかは、確かめさせてるよ」
ミーアだろう。
「さすがにこの距離からでは備えの程は分かりませんな」
男の声。
誰だろう?
いや、誰でもいい。
「バーナット様の目でも見えないのですか?」
「その通りだベアトリス。遠目どころか、最近は報告書も見えにくい」
「ふむ、それはいけないな。眼鏡という代物を試してみてはどうかな?」
「あぁ…屋敷のローエン様が報告書を見るときに使ってたんで、やめといた方がいいですよ」
「ははは、ミーア殿のローエン嫌いは相変わらずか」
「私は嫌ってないです、ローエン様が私達を邪険にするだけで」
皆、笑っているようだ。
「伝令、来てくれ!」
ティアの声が聞こえた。
「後方の輜重隊に伝えてくれ。このあと設営に入るから、すぐに掛かれるようにしておいてくれって」
「承知しました」
彼女の言葉を聞いて、誰かが本隊から掛け出て行く気配がする。
それだ“夜鷹”だったのか、伝令兵だったのかは分からない。
私は、木々の向こうの色から目が離せなくなっていた。
全身が微かに震え、吐息がさらに熱くなる。
胸の奥がざわついた。
手綱を握る手に、力がこもるのが分かる。
ギリっと、奥歯が擦れる音がした。
* * *
野営の陣地に選んだのは、小山の中腹だった。
アタシ達本陣は山頂近くに天幕群を張り、その周囲を兵達の幕舎で取り囲むように配置させた。
周囲に敵兵の姿はないと報告を受けているけど、念には念を入れた布陣だ。
ゴルダ領とは違って、ここは明確に敵地。
緊張しっぱなしは良くないけど、ある程度気は張っておかないと、な。
アタシは天幕の中で一人、貸し出してもらった携帯用の暖炉に火を入れて、鍋で水を温めていた。
火を焚いているだけでも天幕の中が温かくなるんだけど、湯を沸かすとさらに寒さが遠のく気がする。
アレクに言わせると、
「あまり天幕内を湿気させると、あとから寒くなるぞ」
とのことだったので、あんまり長いことはやるつもりはないけど、まぁ、今は必要があるんでその辺りは甘んじるとしよう。
不意に、外から足音が聞こえた。
顔を上げてそっと腰の剣に手を添える。
「ティア」
天幕の外でミーアの小さな声がした。
「あぁ、おかえり」
アタシがそう応じるなり、天幕の入り口の布を払って、ミーアが中へと入ってきた。
どうやら一人らしい。
「子爵様、お忙しそうだったか?」
「あ、ううん、もうお休みになる準備をされててね。もう一度支度をしたいから、少し待って欲しい、って」
それを聞いて、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「そっか…もう少し早めにお声掛けしておいた方が良かったな」
「まぁ、子爵様からのご希望だし、いいんじゃない?」
アタシの言葉に、ミーアはそう言ってくれた。
アタシ達が話題にしているのは、アレクの父、ジキュエール・ノーフォート子爵様だ。
ジキュエール様は昨晩、アタシに「時間を作って欲しい」と頼んできた。
そのために予定を調整してたら、今の時間がぽっかり空くことがついさっき分かった。
それで慌ててミーアに伝えに行ってもらったんだけど、ちょっと間が悪かったらしい。
「…でも、話って、なんだろうね?」
ミーアがそんなことを言って、アタシに視線を送ってくる。
その表情は、見当がつかない、って顔付きじゃない。
アタシの反応を探っているような感じだ。
「…そりゃ、アレクのことだろ」
アタシが言うと、ミーアは渋い表情になって頷いた。
「どう見る?」
「おかしいだろ、明らかに」
ミーアの質問に対するアタシの答えは明白だった。
「ベアトリスやバーナットはどうか分かんないけど、エリクと子爵様は感じてるはずだ」
「まぁ、そうよね…雰囲気がまるで違う」
「そうだな」
アタシは、そう言ってミーアに笑いかける。
彼女はそれでも、渋面のままだ。
「狙ってるよね、あれ」
「狙ってるだろうな。問題は、いつどこで、どんな状況で動くかだろう…“夜鷹”は?」
「……傍に付けてる…あんまり気が進まないけど」
「すまないな…でも、守るためだと思って、割り切ってくれ」
アタシの言葉に、ミーアは渋々頷いた。
アレクは、表面的には何一つ変わっていない。
兵の掌握はいつも通りだし、判断も正確で素早い。
声掛けに対する反応だって、同じだ。
ただ、アタシに対する距離が明らかに近くなった。
今日だって、進軍中に、背や肩に何度触れられたか分からない。
話しかけるついでに、ごくごく自然な流れで体に手を添えてきた。
しかも、本人にほとんどその自覚がないように見えた。
それだけじゃない。
まったく動かないわけじゃないけど、表情の変化が乏しくなった。
いや…もっと突っ込んで言えば、作り笑いのような、その場の雰囲気に合わせて、表情を取り繕うようなことをしなくなった。
あと、やたら干し肉を食べる様子も妙だ。
他にも細かいことはいくつかある。
ただ、一番の決め手は、あの目だ。
アタシには、アレクがどこか遠くを見ているように思えてならなかった。
遠くに王都の姿が見えてからは特に、だ。
アレクは、王を殺そうとしている――
アタシとミーアの推測は、たぶん、間違ってない。
ミーアは、そんなアレクを不安に思っているらしい。
でもアタシは、そんな風には感じなかった。
むしろしっくりと来るというか、そんな感覚だ。
どうしてそんな風に感じるのかは、良く分からないけど…とにかく、アレクはやるだろう。
「それで…どうするつもりなの?」
ミーアがそう聞いてくる。
どう、と言われると…返答しづらい。
「うーん、どうしような…」
「いや、どうしようって…」
アタシの言葉に、ミーアは少し呆れたような様子で言う。
でもな、ミーア。
今は、そう言う他にないんだ…
「やんなきゃいけないことは、分かってるんだ。でも、それができるかどうかが自信なくて…」
それがアタシの本音だった。
「バイルエイン様」
不意に、そんな声が聞こえた。
子爵様だ。
アタシは鍋をミーアに任せてイスから立ち上がる。
入り口の布を退けると、そこには外行きの服を着込んだジキュエール・ノーフォート子爵様の姿があった。
「あぁ、子爵様。こんな夜更けに申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ、お気遣い賜り、恐縮です」
「どうぞ、入ってください。お茶の準備をしておりました」
アタシはそう言って、子爵様を天幕の中に招き入れた。
ミーアが手早く席を準備し、そこに腰を下ろしたのを見計らってお茶を淹れ始める。
アタシも子爵様の向かいに座り直した。
ミーアがお茶のカップを置くと、子爵様は
「感謝する」
とミーアに一言声を掛けてから、暖を取るようにカップを両手で包んだ。
なるほど、あまり畏まってする話じゃない、か。
「…あぁ、そうだ、ノーフォート“おじさま”。貸していただいた携帯暖炉、ありがたく使わせてもらってます」
アタシがそう応じると、子爵様はちょっと驚いた顔になったけど、すぐにフフッと笑顔を見せてくれた。
「それはようございました、“ティア様”。数を揃えられなかったのは、申し訳ない」
「とんでもない。バーナットは、本気で鞍替えを考えているようでしたよ」
「ご冗談を。彼のような忠義者がそのようなことを言い出しますまい」
そんなことを言い合って、アタシ達は笑う。
ミーアがアタシの分のお茶も淹れてくれたんで、おじさまの真似をしてカップに両手を添える。
陶器の器を通して、手の平に熱がジンと伝わってきた。
「それにしても…先日のゴルダ領でのこと、驚きました」
「あぁ、寝返りの件ですか?」
「はい。ティア様は、ご存じだったのですね?」
おじさまは、そう言って探るような視線をアタシに送ってきた。
うん、この辺りはさすがにアレクの御父上だ。
こちらのことを、良く観察してらっしゃる。
「ミーア、あれを」
「はい」
アタシが言うのが分かっていたのか、ミーアは懐に忍ばせていた皮紙の束を取り出して、おじさまに差し出した。
それを手に取ったおじさまは、その中身に目を通して目を見開く。
「ご存じの通り我が家の“夜鷹”は優秀でして…ノイマールの貴族家に関しては、事前にそこにあるだけの情報を得ていました」
それは、おじさまとアレクが再会を果たした夜、敵の陣地に詰めていた四家についての情報を聞いた際にアタシが持っていたものだ。
その皮紙の束には、“夜鷹”が集めてくれたノイマール貴族家に関する情報がびっしりと書き込んである。
公のことから、ちょっと外に出せないようなことまで、いろいろだ。
「では…」
そう言い掛けたおじさまに、アタシは頷いて返した。
「はい。中立を宣言していたソトス子爵様と縁続きのワットン子爵家、そしてさらにその縁続きのビルナー子爵家は、現王と旧知であったがために心ならずも王政派に与せざるを得なかった」
アタシの言葉に、今度はおじさまが頷かれる。
「ミコスト男爵家とハルラド男爵家も、領地の貧しさから支援を求めた王家への恩義で、積極的に協力せざるを得なかった」
続けたアタシに、おじさまはまた大きく頷かれた。
そして、鋭い視線でアタシに問う。
「寝返りを誘う理由としては尤もに思います…ただ、それはあの日の情報共有の中でも出た内容です。誘う理由にはなっても確信を得るには弱い。違いますかな?」
「確かに仰るとおりです。もちろん、万が一寝返りがうまく運ばなくとも勝てるだけの算段はしていました。あの状況であれば、山頂からの工作に合わせ青旗を掲げていれば、多少の被害は出てもなんとかなったでしょう。ですが、アタシが寝返りを打診したのは、ソトス子爵様からお話をうかがっていたからです」
「ソトス子爵から………では…やはり……」
おじさまは、そう言って息を飲んだ。
皮紙束を持つ手に、微かに力がこもったのが分かる。
「はい。後背定かならぬ家をあんな位置に配した、というのが最大の裏付けになりました」
アタシの言葉に、おじさまは全身を強張らせる。
「なんと、愚かな…」
零すように仰るその姿に、胸が痛んだ。
でも…仕方のないことだ…たぶん、おじさまには、どうしようもないことだっただろう。
「おじさま。少し、ひどい言い方をしても?」
「……どのようなことでございましょう?」
おじさまは、アタシに視線を向けてくる。
今度は、アタシの体が少し硬くなる。
それでも、言ってあげなきゃいけない。
「……ノーフォートの家には、もう関わりのないことでございます」
アタシの言葉を聞いたおじさまは、やっぱり皮紙の束をギュッと握りしめた。
アタシは、言葉を継げなかった。
悲しさでも、悔しさでもない。
ただただやるせない…そんな気持ちだ。
でも、おじさまはほどなくして、ふぅと息を吐き、気持ちを整えられた。
「…そうですな。我が家はすでにオルターニア王家の庇護を受けております」
「オルターニア王は肝の座ったお仕えしやすいお方です。アタシの謀反を笑って許してくださる度量もある。ノーフォートのようなお家は、きっと諸手でお迎えになられましょう」
「む、謀反と…?」
アタシの言葉に、おじさまは目をむいた。
良かった、ちょっと持ち直してもらえたようだ。
「はい、弓引くとまで申し上げたんですが、『若い世代が育っていて嬉しい』とおっしゃられて」
アタシの言葉に、おじさまは呆然とし、傍らにいたミーアが噴き出す。
「失礼いたしました、子爵様…ですが、実際にあったことなのです」
そんなミーアの言葉を受けて、おじさまはアタシに視線を送ってくる。
「……なんというか、その…ティア様は、すごいですな」
「ははは、どういう意味でなのかは、あえてうかがわないでおきます」
そう言うと、おじさまも柔らかい笑みを浮かべられた。
そんな様子に、内心ホッと胸を撫でおろす。
それにしても。
おじさまは、アタシが“夜鷹”がかき集めた情報に、ソトス子爵の話があって、初めてその可能性に気が付いた。
しかし、おじさまはアタシの反応だけでそのことに辿り着いた。
ノイマールの賢臣という異名も納得だ。
ということはやはり、アレクと再会したあの日の話しぶりには違和感を覚える。
おじさまは、少なくとも「寝返る可能性がある」ことまでは見通していた。
それなのにあの日は、四家に対してあまり好意的な話しぶりではなかった。
普通なら、寝返りの可能性に言及するはずだ。
しかし、おじさまはそれを避けてあんな言い方をした…
その意図は…やはり、アレクだろう。
「それで、おじさま。今夜の話は、アレクのことでしょうか?」
アタシは、改めておじさまにそう尋ねる。
するとおじさまは、フッと笑みを浮かべてみせた。
その表情は、悲しそうな、悔しそうな、そんな力のない笑みだった。
「やはり…お分かりになりますか」
その言葉に、私は頷いた。
傍らで、ミーアも首肯したのが分かる。
「アレクシアが王に対して、強い怒りを持っているのは分かっておりました。このような状況に至り、あれがこの戦いにどのような心持ちで臨んでいるのかを量るために、あえて四家の心が王に寄っているようにお話した次第。適切にお伝えしなかったことについては、お詫び申し上げる」
おじさまがそう言って頭を下げたので、アタシは慌ててそれを制止する。
「いえ、そのような。こちらとしても、おじさまと同じことをしておりましたのでお互い様です」
アタシの言葉におじさまは頭を上げると、ふぅ、とため息を吐いた。
その顔には、微かに笑みが浮かんでいる。
少し悲しそうな…寂しそうな笑みだ。
「良き縁を得ましたな、アレクシアは」
「それもお互いさまですね。アタシも、アレクに出会えてよかったと思っております」
アタシはそう返してから、一呼吸おいて続ける。
「だからこそ…アレクには幸せになってほしいと思っています…しかし、アレクは、王を殺そうとするでしょう…戦争とは関わりのない、自らの私怨で…それはアレクの幸福になりえると思えません」
おじさまは、アタシの目を見て大きく頷いてくださった。
そのことに安堵感と心強さが感じられる。
これで、おじさまも王殺しに賛成してたら、ちょっと困ってしまうところだった。
「アレクは、王をずいぶんと憎んでいますね」
「はい…仰る通りです。これには深い事情があり…」
おじさまはそう言って話を続けようとされる。
アタシは、そんなおじさまに向けて手を掲げて、その先を制した。
「その辺りのことは、アレク本人から聞いています…アレク自身も、おじさまも、相当に苦労されたようで」
アタシの言葉に、おじさまはがっくりと肩を落とされた。
おじさまにとっては何の成果も得られずに、ただただアレクに傷を付けたという結果に終わったのだ。
でも、今はそのことを深く話している場面じゃない。
話題を次に進めようとしたら、おじさまは深く息を吐いた。
手に持っていた皮紙束をミーアに手渡し、お茶のカップを煽ってから、もう一度、大きく息を吐く。
そして
「……姉の、ジルベールとは面識がおありですか?」
と聞いて来た。
ちょっと予想外の質問に戸惑ってしまったけど、アタシはなんとか頷いて返す。
するとおじさまは、カップを両手でつかんで、視線を宙に漂わせた。
「あれは、とんでもない聞かん坊でしてね…算術の家庭教師が来るとなれば屋敷の三階の窓から飛び降りて逃げ出したり、領内の子ども達を束ねて自警団のまねごとを始めたりと、本当に大変でした…」
えっと…うん…ううん?
その、これ…なんの話だ…?
アタシは思わずミーアに視線を向けてしまう。
ミーアも、ちょっと首を傾げながらアタシを見ていた。
「厳しく躾けて、どうにかこうにかそれなりの振る舞いができるようになったのは、もう十四、五を過ぎたころだったと思います」
「はぁ…」
アタシは思わず、そんな声ともつかない声を漏らした。
ちょっと信じられないな…
ジルベール様は、確かに芯が強いところはあったと思う。
でもすごく丁寧だったし、言葉選びも落ち着いていて、話の持って行き方も上手かった。
どちらかって言えば、強かな交渉をする文官、って印象だ。
もちろん、サラテニアの侵攻を防ごうと領都で戦ったんだから、それなりの力がある人だってのは分かってたけど…それにしても、全然別人の話みたいだ。
「……ですが、アレクシアは違いました。あれは幼い頃から聞き分けが良く、どこに出しても恥ずかしくない、立派な娘でした」
そう言ったおじさまは、はぁ、と深い深い溜息を吐いた。
そして絞り出すように言った。
「………ずっと、我慢をさせてきたのかもしれません…」
それを聞いて、ギュッと胸が締め付けられた。
頭の中に、ディットラー領でのことが思い出される。
「アレクシアに、厳しいことなど何一つ言った記憶がありません。しかし、姉を見て育ったアレクシアは、どこかで自らを抑え込むことを覚えてしまったんでしょう…私達夫婦も、品行方正なアレクシアを褒めそやしました」
おじさまは、カップを口元に運んで、ズズっと音をさせた。
そんな様子を見たミーアがそっと動く。
携帯式の暖炉に掛けていた鍋からポットにお湯を注ぐと、すぐさまおじさまのカップにお茶を注いだ。
「そんなアレクシアは、成長してからも変わりませんでした。家のため、領地のため、民のため、身を賭して役目を果たしてくれていた…私もあの子に甘えてしまったのだと思います…だからこそ、あの日…私は、あの子を止められなかった」
カップに添えられた手に再び力がこもった。
「あの日…王に求められて王都に旅立つ日の朝、アレクシアは言いました。必ず、子爵家の立場と領地を守ってくる、と。そんな彼女に、私は『頼んだ』と、そう、言ってしまったのです…」
「それで…王都で…」
アタシは思わず言葉を継いでしまう。
しかし、おじさまはそれを聞いて頷かれた。
「はい…アレクシアは傷物にされた挙句、献身が足りなかったと断じられ我が家は転領を命じられました。そして、彼女が昔から親しくしていたリーリニア嬢すら失った…だというのに…」
おじさまの目に、涙が溢れてくる。
「あの子はそれでも言ったのです…『私の努力が足りなかった、至らなかったせいで』と…」
その辺りからは、知ってる。
アレクに聞いた通りだ。
おじさまは…ずっと悔いていらっしゃったのだな…
そう思いつつ、実際におじさまから話を聞いたアタシはアレクを怖いとすら感じ始めていた。
正確に言えば、アレクの自律心を、だ。
アタシの人を惹き付けるなんてところが、国や部隊を壊す危険性を持ってるっていうのと似ている。
アレクが自分を律する力は、周りの人間を巻き込む。
巻き込んで、それに依存させるんだ。
アタシはアレクに憧れた。
強くて、献身的で、理性的な立派な騎士だ。
だから、アタシはアレクを頼った。
そばに居たいと思った。
でも、それはアレクの中にいる獣を苦しめるだけだったんだ。
「おじさま」
アタシは、なるだけ穏やかにそう声を掛ける。
「アレクは、アタシの知る限りではもっとも強くて、献身的で、理性的な素晴らしい騎士です。それは、おじさまと御母上のフィリア様あってのこと。立派になった彼女を、どうか誇られませ」
しかし、おじさまは溜息を吐いて肩を落とされた。
「王の真意にも気付けず、娘の気持ちも理解できず…不甲斐ないばかりです…」
そんな様子を見て、アタシはやっぱり親父殿を思い出していた。
ティットラー領で話をしたときは、アタシの気持ちに気付いてやれなかった、って謝られたっけ…
おじさまも、親父殿とおんなじ気持ちなのかもしれないな。
そう思ったら、アタシは声を掛けずにはいられなかった。
「……子を育てるというのは、存外、苦労するもののようですね。アタシも、先日父上に同じような話をされました」
アタシがそう言うと、おじさまはちょっと驚いた表情で顔を上げた。
「伯爵様が、ですか?」
「はい。外では傑物と言われていますが、屋敷では普通の父親です。もしかしたら、おじさまとも話が合うかもしれません。困った娘の子育てで、父上も悩まれていたようですので」
アタシがそう言ったら、おじさまもフフッと笑って肩から力を抜かれた。
バーナットとも話が合っていたようだし、きっと父上とも相性が良い。
「手紙でやり取りしている分には、そのようには感じませんでしたな」
「もうじき対面することになりましょう。きっと父上も、おじさまにお会いできるのを楽しみにしているはずです」
「そうであれば、光栄ですな…子を案じる気持ちを肴にするのも、良いものかもしれません」
おじさまはそう言って、またほうっと息を吐く。
今度のは、少し安堵が混じっている。
そんな様子に、アタシは何となくの安心感と心強さを感じた。
二人が酒を飲みながらアタシやアレクの愚痴を言い合ってる様子を想像したら、少しだけ胸の奥が暖かくなった。
二人とも子どもを案じる父親だもんな…
そんなことを思ってふと、あぁ、そうか、と頭の中で、何かが繋がる。
アレクの自分を律する力は、本当に強かったのだろう。
それほどまでに、アレクの中の獣も強力だったんだ。
その獣を、アタシは受け止める覚悟は、アタシにはもうできてる。
だけど、困ってたのはそこじゃない。
ヒルダナ男爵のところでの野戦のときのように、アレクが感情のままに自分の力を発揮したらどうなるかを、アタシは知っている。
アレクは、必ず「その瞬間」を作り出すだろう。
押し潰すような勢いと、手を入れる間もないような精密さで。
でも、それを越えなければ、受け止めることすらできないんだ…
「おじさま」
気付けばアタシは、おじさまにそう言っていた。
「…そんな日常のためにも、おじさま。アタシに力を貸してください。アレクを幸せにするために」




