ホットワイン
その晩遅くに目が覚めたのは、軋む簡易寝台の寝心地が良くなかったからでも、これからのことが気掛かりだったからでもない。
単純に、寒かったのだ。
ノイマールでは冬季行軍の際には、父様の天幕にあったような携帯用の暖炉を使って暖を取る。
しかし、オルターニアにはその辺りの発想はないらしく、軍需品の中にはそれに類する装備が含まれていなかった。
代わりに、一人一人に厚手に毛布が追加で支給されてはいるが、それでも夜が更けてくると寒くなる。
ここから先、長いこと行軍するようになるとしたら、どこかで携帯暖炉を手に入れないことには私だけではなく、兵達にも支障が出かねない。
目が覚めてしまった私は、外套を羽織った上から支給の毛布を羽織って天幕から出た。
暖炉がないとは言え、天幕の中は風を凌げるからそれでも暖かだったらしい。
外に出た途端冷え切った空気が触れて、肌が裂けそうに痛んだ。
空気を吸うたびに体の奥に冷たい空気が流れ込み、吐き出す息ははっきりと白く残る。
それでも私が天幕を出たのは、外に掲げられている篝火が目当てだ。
そこで少し温まれば、多少は寝付きが良くなるに違いない。
篝火は、あちこちに焚かれている。
私は、士官用の天幕群の中央にあった篝火に目を付けて、折り畳みのイスを引きずってその傍に腰を下ろした。
士官の天幕群ということもあって、辺りには警護の兵がけっこうな数がいるものの、篝火の傍にはほとんど人気がない。
とはいっても、兵達が寒空の下で立ち尽くしているわけではないようだ。
それぞれの兵も、持ち場に近い篝火で暖を取っている姿があちこちに見える。
さすがにこんな夜だ。
持ち場を守れだなんて細かいことは言うまい。
私はそんなことを思いながら、夜空を見上げる。
月が煌々と輝いていて、星々が無数に瞬いていた。
静かな夜だ。
私は、そんな雰囲気に自然とホッと息を吐いていた。
「お嬢さん、お一人ですか?」
不意に、背後からそういう声が聞こえてきた。
振り返るまでもなく、その声色でティアだということが分かる。
視線を向けると、ティアは毛布を二、三枚重ねて羽織って身を震わせていた。
その姿が、まるで小さな女の子が遊ぶ人形のようで、思わず笑ってしまう。
「麗しい女性を引っ掛けようとしている割には、ひどい格好だな」
私がそう言ってやると、ティアは肩を竦めて…いや、格好のせいでそうしたのかどうかも定かではないけど、とにかく渋い表情で
「仕方ないだろ、寒すぎる」
と文句を言いつつ、私の隣に折り畳みのイスを置いて腰を下ろした。
イスに座ったティアは、懐から何かを取り出した。
それは、ワインの瓶と小さな鍋だった。
「ティア、何する気だ?」
「んん?ホットワイン。飲むだろう?」
「良いのか、私達は軍役の最中なんだぞ?」
「ウチの私兵団は、規則を守ってれば飲酒は咎められたりしないんだ」
そう言いながら、ティアはワインの瓶の栓を切り、鍋の中に豪快に注ぎ始める。
鍋をワインで満たしてから、ティアはハッとして
「しまった…先に火を貰っとくんだった」
と呆けた様子で言う。
どうやら、ティアも今起きたばかりらしい。
よくよく見れば、表情もぼんやりとしていた。
「私がやろう」
ワインでいっぱいになった鍋を持って動けなくなっていたティアに代わって私がイスを立ち、篝火に突っ込まれていた薪を数本引き抜いて地面に井桁を組む。
篝火には新しい薪をくべ、井桁に組んだ薪にも新しい物をもう何本か重ねた。
ティアはその井桁の薪をワインの瓶のそこでコンコンと叩いて強度を確かめると、そっとその上に鍋を置く。
ティアの表情が、心なしか楽しそうに見えた。
そうしていると、不意にティアが思い出したように私に視線を向けてくる。
「あぁ、軍規的には問題ないんだけど…ミーアには内緒にしてくれよ」
「いいけど…どうして?」
「ワインをこういう飲み方するとすっごい怒るんだよ。生産者の魂がナントカ、って」
「あぁ、『ワインバカ』…じゃなかった、愛好家ね」
「そうそう、それ」
私の言葉にティアがクククっと笑う。
それにつられて、思わず私も笑顔になった。
全身がほぐれる様な感覚がして、ホッと息が出る。
心持ち温かくなってきたのは、火のせいか、それともティアのお陰だろうか。
「アレク、ちょっと聞いていいか?」
不意に、ティアがそう声を掛けてきた。
「うん、なんだ?」
「アレクは、王政支持派の陣地をどうしたい?」
思わぬ質問に、私はティアに視線を向けた。
彼女は、私をジッと見つめていた。
「…どうもこうも…今の状況では無理攻めを選ぶ利がない。明日に敵陣の状況を確かめてみないことには、進むも退くも、決められないだろう?」
私がそう言うと、ティアは首を横に振った。
「違う、そう言うことじゃなくて」
そう応じたティアは、僅かに黙り、それから少しためらいがちに、口を開いた。
「アレクは、どうしたいんだ?」
同じ言葉を繰り返したように、最初は聞こえた。
しかし、ティアの瞳はそうは言っていなかった。
私は、彼女に見据えられて、まるで全身を縫い留められたような感覚に襲われる。
鋭い視線でも、厳しい表情をしているわけでもない。
それでも、ティアの視線が私の心の深いところに刺さるような、そんな感じがする。
私は、ティアの質問の意味を理解した。
「……なんで、そんなことを聞く…?」
「我慢してるように見えてな」
私が絞り出した言葉に、ティアは鍋に視線を戻しつつ囁くように言った。
胸の奥で、何かがうずいた。
…手触りが悪く、気味の悪い、不快な何かだ。
「…私の想いなどどうだって良い。私達の目的はこのゴルダの救援だ、そうだろう?」
私はティアにそう返す。
強がりのつもりはなかった。
しかし、どうしてか、すこし強い口調になってしまう自分がいた。
私の言葉に、ティアはゆるゆると首を横に振る。
私はその態度に、思わず眉をひそめてしまった。
ティアは、相変わらず鍋の様子を見ながら、小さな声で言った。
「今、親父殿が本国からの増援と一緒に、中央街道を進んでる。目的地は、ハズラン伯爵領だ」
胸の奥がざわっと波立つ。
「……伯爵様が、本格的に侵攻されているのか。目指すは王都だな?」
私が聞くと、ティアはまた首を横に振った。
「言ったろ、目的地はハズラン伯爵領だ。その領都を囲むように動くはずだ。そして、そうなれば、ノイマール王都の守備に就いている国軍はハズラン領に増援に出なきゃならなくなる」
「……確かにあそこは、王都の東側の防衛の要だ。あの王は、その辺りは抜け目がない。そうやすやすと落とされるような愚は犯さないだろう」
そう応えると、ティアは一瞬ピクリと反応して私に視線を送ってきた。
何かおかしなことを言っただろうか?
それとも、ティアはもっと別の何かを私に伝えようとした…?
寸瞬、グルグルと思考が回る。
しかしティアは、ややあって鍋に視線を戻すと、言葉を継いだ。
「もしそうなったら、王都の守備は相当に薄くなる。そこをアタシ等が直接叩く。それが、アタシ達の本当の任務だ」
それを聞いた瞬間、私は思わず立ち上がっていた。
なぜ体がそんな反応をしたのか分からない。
ただ、心の奥で感情が昂っていることだけは感じ取れる。
「なぜ黙っていたんだ?」
「…情報統制、かな。こっちが南周りで迂回攻撃を掛けるなんて万が一にも漏らすわけには行かなかった」
「だが、私達にくらいは話してくれても良かったんじゃないのか?」
「うん、それはちょっと失敗だったかもしれないと思ってる。ソトス子爵のトコでミーアに初めて話したんだけど、ちょっと怒られたし」
ティアはそう言って、クスクスと笑う。
そんな彼女は、鍋を火からおろして私を見上げた。
「ほら、温まったぞ。座って飲もう」
ティアの言葉に私はハッとして気持ちを整え、イスに腰かけ直す。
しかし、ティアは少しの間黙りこくってから、私に視線を送ってきた。
「悪い、ジョッキ忘れてきた」
彼女は、私の気持ちを分かってあえてこんな感じなのだろうか。
それとも本当に眠いだけなのだろうか。
良くわからない…でも、悪い気はしない。
少なくとも、彼女は私を想ってここに居てくれている。
それだけは確かに感じられたからだ。
「取ってくる。少し待て」
「うん、ごめんな」
私は再びイスを立って、小走りに天幕へと駆け戻る。
木製のジョッキを二つ抱えて、焚火のところへと戻った。
「ほら」
「あぁ、ありがと」
ジョッキをティアに差し出すと、彼女はそこに温まったワインを入れてくれる。
イスに三度腰を下ろしてそれを煽ろうとして、
「あぁ、待って」
とティアに止められた。
見れば、皮の小袋から何かを取り出した。
焚火で多少は明るいとはいえ、それが何なのかは分からない。
「なんだ?」
「干した甘橙を砂糖に浸けたやつ」
ティアはそう言うが早いか、それを私のジョッキの中に放り込んだ。
手早く自分のジョッキにも入れた彼女は、私に向けてそのジョッキを掲げてくる。
私は無言で彼女のジョッキに自分のをぶつけた。
ティアは嬉しそうに笑みを浮かべてジョッキを煽る。
その姿を見て、私も改めてジョッキに口を付けた。
ワインの風味と、甘橙の風味が混ざり合い、そこに砂糖の甘さと温かさが加わっている。
なんというか…無性にホッとする味だった。
「なんで干し果物を用意しているのにジョッキを忘れるんだ?」
「干し果物を忘れないようにって思ってたからジョッキを忘れたんだよ」
ティアはそう言って、またクスクスっと笑う。
私も、それにつられて思わず笑ってしまった。
胸の内に沸いたざわつきも、ずいぶん大人しくなっている。
ティアのお陰だろう。
「…黙ってたことは、謝るよ」
「構わない。そうする必要があった、と考えたんだろう?」
「うん、まぁ、そう」
「それなら、気にすることはない」
「そっか、なら、良かった」
そう言ってティアはジョッキを煽り、それからふぅ、と息を吐いた。
視線を向けると、ティアも私を見ていた。
そんなティアが、まるで軽口のような声色で言う。
「親父殿の進軍と歩調を合わせる必要がある。なんにしても、ここに留まるって選択肢はない」
そう言って、ティアは私から目線を外し、パチパチと音を立てて燃える焚火に目を向ける。
それから、
「でも、それとは関係なく…アレクがどうしたいのか、聞いときたかった」
と、呟くように言った。
もう、胸の内に不快感は込み上げてこなかった。
彼女の意図がようやく分かったような気がした。
ティアは…私を心配してくれているんだ。
配慮や、気遣いではない。
私の想いを…気持ちを、大事にしてくれようとしている…それが伝わってきた。
だから、気付けば私は、自然と言葉を漏らしていた。
「……ここに留まっていたくはない…王都に行きたい」
ティアは、私を見なかった。
でも、
「そうか」
と優しい声色で答えてくれた。
それが、ジワっと胸に沁み込むようで、私は全身の強張りが解けていくような感覚になる。
礼を言いたい、そう思って口を開きかけたとき、ティアはいきなり持っていたジョッキをグイっと煽ると、パッと立ち上がった。
「ティア…?」
思わず名を呼んだ私に、ティアは視線を送ってくる。
その表情は、なにか、嬉しさとも満足感とも言えない感情にあふれているように見えた。
「分かった、アタシに任せとけ」
ティアはそう言うが早いか、私に干し甘橙の入った革袋を投げて寄越すと、サッと踵を返して歩き出してしまった。
「ティア!?」
再び名前を呼ぶ私に、ティアは振り返ると、
「仕込みをしてくる。あぁ、ワインは飲んじゃっていいぞ。なんなら、その辺りの兵にも声を掛けて振舞ってやってくれ。あ、ミーアには気を付けてな」
と言い残し、スタスタと天幕群から離れて行ってしまう。
私はそれを、ただただ呆然と眺めている他になかった。
* * *
二日後の朝、私は北辺の敵陣から二町ほど南に部隊を展開させていた。
嘶く馬の声、鎧や武器が微かに擦れる音、兵達の微かなざわめき。
部隊間を伝令が掛け回り、士官達は兵を掌握し、こちらからの指示を待っている。
寒空の下で、ただ待たせておくのは申し訳ないと、少し思う。
やはり冷える。
いざその時となって、兵達の動きが鈍いなんてことにはしたくない。
だから、戦闘の合図があるまではそれぞれに防寒するように許可を与えておいた。
兵達も士官連中も、皆隊列は組んでいるものの、防寒用の毛布を羽織っている。
そこまでするには、もう一つの理由がある。
私達は、ティアからの合図があるまでは動けないからだ。
ティアと温めたワインを飲みながら話をした翌日の朝、彼女は私達や士官を天幕に集めて、敵陣攻略のための作戦を説明した。
バイルエインの兵一千五百と、父様達反王政派の兵二千五百とで、敵陣に迫り注意を引きつつ圧力を掛ける。
ティアは事前に、“夜鷹”と馬を降りた五百の騎馬隊、そして工兵隊が、陣地のある山の頂上に登り、工作の準備を行う。
狙いは敵の注意がこちらに向いている間に、工兵隊による工作…切った木材と削り出した岩を、山の中腹にある敵陣地に転がすことだ。
そして敵陣地が混乱した隙に、こちらが前進して陣地を制圧する。
確かに、敵の虚を突ける可能性のある作戦ではあると思った。
しかし、敵が山頂に警戒のための部隊を置いていない保証はない。
仮に山頂を確保できたからと言って、工作がうまく行くかどうかは分からない。
正直に言えば、希望的な観測が多分に含まれた策に思えた。
そう思ったのは私だけではない。
エリクにベアトリス、他の士官達からも、危険性を指摘する意見が少なくなかった。
そんな私達に、ティアは言った。
「ものは試しだ、待ってるだけよりずっと良い。工作がうまく行かなきゃ、そのまま兵を引けばいい。別に損害を受けることもないし」
確かに、ティアの言うとおりだった。
この作戦で最も危険なのは、山頂を確保するために山を登るティアと騎馬隊、そして工兵隊だ。
それが理解できて、ベアトリスは渋い表情を浮かべていた。
私も、ソトス子爵領でのことを思い出した。
また自分の身を犠牲にするのか、と。
しかし、今回はティアを叱れなかった。
怒りも沸いてこなかった。
抱いたのは、後悔。
私が王都へ行きたい、などと言ったから、ティアに危険な場所へ向かうような決心をさせてしまったのだと、そう思った。
「しかし…ティアニーダ様というのは、思い切りが良いな」
そう言ったのは、父様だ。
私達の部隊はすでに合流し、指揮系統の一本化も済ませていた。
総指揮は私が、バイルエイン家の兵はバーナット殿がまとめ、反王政派の兵は父上がまとめる。
敵陣は谷を形成する山の両側に布陣しているから、左を父様が、右をバーナット殿が攻めることに決めた。
これで無用な混乱は避けられるだろう。
「まさか、父様が納得されるとは思いませんでした」
「正直に言えば、納得したわけではない…判断する前にお前達が動いたから、それに合わせなければと思っただけだ」
「子爵様、ご迷惑をお掛けしたこと、私から謝罪を」
そう言って、ベアトリスが頭をさげた。
私兵団の枠組みではバーナット殿の方が上の地位ではあるものの、ティアを掣肘できるのは、立場的にティアの副官の一人であるベアトリスかミーアだ。
そのミーアは、ティアと一緒に山頂に登って行ってしまっているので、順序的にはベアトリスが「バイルエイン家」としてのティアの代わりとなる。
その辺りをしっかりと把握して役割をこなす彼女は、さすがの一言に尽きる。
「なに、お気にされるな。ティアニーダ様のおっしゃるように、うまく運ばなくとも兵を引けば良いだけのこと。こちらがただただ守っているばかりだと思わせないための牽制にもなり得る。これはこれで、利がないわけでもない」
父様がそう言うと、ベアトリスは恐縮したように再び頭をさげた。
本来なら、私こそ皆に謝らなければならないのかもしれない。
ふとそんなことを思ってしまって、私は頭を横に振る。
今は、後悔なぞしている場合ではない。
務めを果たすことが最優先だ。
「ティアからの合図は?」
私は気持ちを切り替えて、傍に控えていた“夜鷹”の一人にそう声を掛ける。
“夜鷹”の男は、かしこまった様子で首を横に振った。
「山頂付近に、物見塔が建ったことは確認できています。しかし、その物見塔には未だ黄旗が掲げられておりますので、待機せよとの状況かと」
“夜鷹”の報告に、唸り声をあげたのは父様だ。
やはり、この状況を面白くは思っていないんだろう。
「黄旗…確かに黄色い旗を掲げているのが見えるな。色で意味を持たせているということか?」
父様は…まるで興味深い、と言った様子で山の頂上に建っている物見塔を眺めてから、陣内に居たバーナット殿に声を掛けた。
「はっ、子爵様のおっしゃる通りにございます。その都度持たせる意味合いは変りますが、我が家の私兵団は共通して色付きの旗か、戦鐘の音を合図に使っております」
「なるほど…目の良い者、耳の良い者なら、言葉よりも伝達が早かろうな」
「はい、その辺りを重視しております。今回の場合、黄色は待機、青なら攻撃開始、赤なら撤退の指示です」
「ふむ…この青空に、青色の旗は少し見づらくはないか?」
「ははは、それはごもっともにございます、見落とさぬように努めましょう」
二人は、そんなことを言い合って笑っている。
…面白くない、とは思っていないようだ。
むしろ楽しんでいるような、そんな気配すら漂わせ始めている。
「アレクシア」
不意に、バーナット殿との話に区切りのついた父様がそう声を掛けてくる。
その表情には、微かな配慮が感じらた。
「はい、父様」
「あの物見塔が建ったということは、少なくとも山頂を確保できたということだ。そう不安に思うこともあるまい」
「…はい」
そう返事をする他になかった。
良くない傾向だ。
気持ちを立て直しきれていない。
ヒルダナ男爵領での野戦の前日と同じだ。
あのときは用兵のことばかりが頭を巡っていたが、今は罪悪感が拭っても拭っても滲み出てくるような感覚がする。
「アレクシア様。輜重隊のサディンが」
不意に、そう声が聞こえた。
ハッとして顔をあげると、エリクがすぐそばに来ていて、私に声を掛けてくれていた。
「あぁ、通してくれ」
そう声を掛けると、すぐに周囲を固めていた兵達が割れて、輜重隊の士官のサディンが姿を現した。
「サディン、どうした?」
輜重隊は、少し後方で待機を命じていた。
万が一戦闘になった際に、負傷者を迅速に運搬するための備えをしてもらっていたのだが、ここまで来たということは、何か問題でも起こったということだ。
「はい、兵達が寒がっているようだと話が出ておりまして」
「そっちにも連絡が行ったか」
「ええ、追加の毛布の運搬を頼まれることが何度かありましたもので」
「ああ、なるほど…確かに許可を出したな」
私が首肯すると、サディンが続ける。
「つきましては、炊き出しの許可を頂きたく」
「炊き出し?」
「はっ、温かいもので腹を満たせば、この寒さもしのげるのではと思いまして」
ふむ、と思わず声が出た。
確かに効果はありそうだ。
しかし、この状況で行うことだろうか?
いつ、あの物見塔の旗が青に変わるか分からないのだ。
……いや、いつ変わるか分からないからこそ、と思うべきか。
考えを巡らせた私は、バーナット殿に視線を送った。
「バーナット殿、良い案だと思うが、どう思われます?」
バーナット殿も、私の問いに、ふむ、と声を漏らせた。
「士気も保ちやすくなりましょうし、悪くはないと思います。ただ、残りの糧食が少々気がかりですな」
そう言ったバーナット殿は、今度はチラチと父様に視線を送る。
そうか、バイルエイン家の兵達だけに炊き出しを行うわけにはいかないだろう。
反王政派の部隊にも同じ手当てをする必要があるはずだ。
ディットラー領で糧食はかなり追加したが、それでも二千の兵の分と計算して積み込んだ。
父様が率いる部隊に回せば、その分こちらが行軍できる期間が縮まってしまう…
「父様、いかがでしょう?もし、糧食に余裕があれば、バイルエインの部隊が炊き出しを受け持ちますが?」
「ああ、それは助かる。こちらにはそれ専門の部隊なぞ揃っておらんからな」
父様の反応を聞いて、私はホッと胸を撫でおろす。
「糧食は、陣地の方に?」
「あぁ、そうだ。運ばせるよう手配する」
「アレクシア様、それであれば我が輜重隊にもご助力させてください」
「うん、そうしよう。父様、誰か案内を付けてもらえますか?」
「よかろう。すぐに人を出す」
短い打ち合わせの末に、父様は兵を呼び出してサディンと共に糧食の運搬に関わるように命じた。
兵がサディンと共に本陣から出て行くのを見送っていると、バーナット殿が思い出したように話し始める。
「そう言えば…子爵様のところには、携帯用の暖炉があると伺いましたが」
それを聞いた父様も心当たりがあるかのように
「ああ、この時期の陣張りには欠かせぬものだ。オルターニアにはないのだそうだな」
と応じて笑顔をみせる。
「はい、さすがにこの歳ですので、めっぽう寒さが堪えまして…」
「ははは、まだまだ若く見えるが、確かに備えがなければ厳しかろう」
「ゴルダ領都で贖うことが叶いましょうか?」
「我々がかなりの量を持ち出しておるからな…多少の予備は残っていると思うが…」
「そうですか…手に入れるのはなかなか難しそうですね」
「その方が我が家に鞍替えしてくれるというのであれば、融通しても構わぬが?」
「いやはや、それは困りましたな」
二人は、相変わらずの様子でそんなことを言い合っては笑っている。
寒いのは本気だろうが、鞍替えなんて言うのは冗談だろう。
それも少々性質の悪い冗談だ。
昨日も思ったが、父様はこういうことを言う方だったのだな…
ティアにしても、バーナット殿にしても、父上はバイルエインの家の者とは、相性が良いのかもしれない。
いや、それは私やジル姉様も同じ、か。
それからおよそ二刻ほど、私達はその場に待機を続けた。
輜重隊が行った炊き出しのスープが届きはじめ、兵達にも交代で休み、暖を取るように指示を出す。
私達本陣にもそのスープが回ってきた。
ふやかした麦が主体で干し肉と根菜の入ったそれは、もはやスープというより麦粥に近かったが、冷えた体にはとにかくありがたかった。
兵達の後退が一回りし、皆が腹を満たして一息吐いた、という報告が入ってから間もなく、本陣に伝令の一人が慌てて駆け込んできた。
「伝令!伝令にございます!」
ギュッと胸が詰まるような感覚に、私は幾分か緩んでいた気持ちを整える。
幸い、腹にものを入れたおかげか、今朝方までの気落ちをうまく覆い隠すことができた。
父様やベアトリス、エリクにバーナット殿は、それまで緩んでいた表情をギュッと
引き締めている。
「儀礼は無用、なにがあった!?」
私は伝令が本陣に入ったその瞬間には、そう声をあげていた。
伝令の兵はそれでも傅きながら声を張る。
「敵に動きあり!全軍が陣地を出て、山を下っております!」
瞬間的に、背筋に冷たいものが走った。
まさか…攻勢に出たというのか…!?
「ベアトリス、エリク、バーナット殿!至急、各隊に戦闘準備の指示を!」
「「はっ!」」
三人はそう言うが早いか、本陣を飛び出していく。
父様も兵に戦闘準備にかかる旨の指示を伝令に託したようだ。
「こちらに来るのか?」
「詳細は未だ不明にございます!現在、斥候班が確認しておるところ!」
第一報か。
助かる想いだ。
仮にこちらをめがけて進軍してきても、ギリギリ迎え撃つ準備を整えられるかもしれない。
「承知した、引き続き頼むと斥候班に伝えてくれ」
「はっ!」
そう言うと伝令も本陣から飛び出した。
その後姿を見送るのを待たずに、私はそばにいた“夜鷹”に声を掛ける。
「物見塔の旗は?」
「未だ、黄旗です」
この状況でも待機…
私はゾワリとする感覚に、思わず拳を握っていた。
もし万が一、こちらの策が敵に漏れていたとしたら?
ティア達はすでに全滅するか捕縛されるかして、策を逆手に取られていたとしたら?
そんな想いが頭を巡る。
「アタシに任せろ」
そう言ったティアの顔が脳裏をよぎった。
同時にギュッと心臓を掴まれたような感覚になる。
ティアの身にまでなにかあったとしたら…私は…
「アレクシア様、旗が!」
不意に、“夜鷹”の叫ぶ声が聞こえて、私は顔をあげた。
目を凝らして山の頂上の物見塔を見る。
そこにはためいていたのは、青空に生える赤い旗だった。
その血のような赤に、頭の奥底で何かがひしゃげた。
「赤旗を確認、撤退の合図です」
「……ダメだ」
「はっ…?」
「撤退はしない」
私は、“夜鷹”にそう応じた。
それから、本陣に控えていた伝令に叫ぶ。
「各隊へ伝令!横陣に展開急げ!敵が来るなら、ここで迎え撃つ!」
「アレクシア」
「父様、ここは引けません!戦闘準備を!」
声を掛けてきた父様に、私はそう言い放っていた。
さらに、傍らに付いていた“夜鷹”に指示を飛ばす。
「ソランの隊を呼び出してくれ、至急だ!それから、バーナット殿にソランの隊を陣から外すよう伝えろ!」
「はっ!」
今度は“夜鷹”が本陣から飛び出した。
敵が向かって来るなら、ここで叩き潰す。
その間に、少数だがソランの部隊を山にあげてティアのあとを追わせる。
なにか、予想を超えた事態になっていることは明白だ。
ティアに、何かが…!
「伝令!伝令です!」
不意に、そう声が聞こえた。
どうやら続報がきたらしい。
「こちらだ!報告せよ!」
私は、知らず知らずに荒くなってしまっていた語気のままに伝令を呼びつける。
今度の伝令は、私の前に駆け寄ってきて、傅くことなく報告を行った。
そしてそれを聞いた私は、頭の中がしばらく真っ白になった。
「山を下りた敵軍が、軍道のノイマール国軍一千を包囲した模様!」




