第9話 空の向こう側と、追跡者
空の向こう側には、何もなかった。
青い、青い空だけだ。雲一つない。
私たちが今まで住んでいたエリジウムの周りには、いつも分厚い蒸気の壁があった。でもクジラがその壁を突き破ってから、世界は変わった。
下を見ると、クジラの背中に乗った下層の街が小さく見える。歯車スラムの明かりが、まるで星みたいだ。あそこに、私の工房もある。
「……寒い」
零が隣で小さく震えた。胸の歯車は、もう落ち着いた速さで回っている。でも青い目は、まだ不安そうに空を見ている。
「寒いのか?」
自分の作業着を脱いで、肩にかけた。油の匂いがする、汚れた作業着だ。嫌な顔をするかと思ったけど、しなかった。逆に袖の匂いをくんくんと嗅いで、小さく笑った。
「……エダの匂い。温かい」
その時、ハチドリ便の操縦席からジュリアンの緊張した声が聞こえた。
「エダ! 後ろを見てみろ! 来たぞ!」
振り向くと、青い空に黒い点が三つあった。どんどん大きくなる。帝国の追跡艇だ。
「マルゴ! あれ、何!?」
「工務局の高速艇だよ! 熱線砲積んでる! 当たったらハチドリなんて一発だよ!」
マルゴがフラスコを投げ捨てて叫んだ。怠惰な彼女がこんなに必死な顔をするのは初めて見た。
「クヴィリン! 何か考えろ!」
「無茶を言うな! この気嚢のスペックで、あの艇の速度から逃げるなんて物理的に不可能だ!」
そう言いながらも、必死に設計図を広げている。屋根裏の天才は諦めていなかった。
父さんが私のレンチを見た。
「エダ。お前のレンチは、機械の声を聞くだけじゃない。機械に、お前の声を届けることもできるはずだ。クジラに、聞いてみろ。どうしたいか」
クジラに、どうしたいか。
私はハチドリの縁から身を乗り出して、下にいるクジラに向かって共鳴レンチを掲げた。
ブゥン!
また世界が静かになった。今度は、クジラの声だけが聞こえた。
……怖い。後ろの、黒いものが怖い。逃げたい。でも、下の街が重い。重くて、速く泳げない。
そうだ。クジラは、下層の街を乗せたままでは速く飛べないんだ。街が足枷になっている。
「零!」
零の手を握った。
「クジラに言って。街は、置いていっていいって。私たちはハチドリで街を導けるから。だからクジラは、自由に泳いでいいって」
零は、私の言葉を真鍮の糸を通してクジラに伝えた。
クジラが一度だけ大きく鳴いた。そしてゆっくりと体を傾けた。
背中に乗っていた下層の街が、ズルリと滑り落ちる。街は落ちるんじゃない。クジラがそっと空に置いたんだ。
クジラが七十年間吐き続けた古い蒸気が、油と錆を含んで固まって、雲の絨毯になっていた。街は、その絨毯の上にふわりと乗った。
「やった! 街が、浮いた!」
ピッパが叫んだ。
その瞬間、クジラは嘘みたいに軽くなった。身を翻して、青い空の向こうへ矢のように加速する。追跡艇なんて目じゃない速さだ。
追跡艇は、置いていかれた街を見て混乱している。どっちを追えばいいか分からないんだ。
「今だ、ジュリアン! 街の方へ!」
私の声で、ジュリアンはハチドリの舵を切った。クジラは追跡艇を引き連れて、空の向こうへ消えていく。
私たちは雲の上に浮かぶ、私たちの家へ向かって降りていく。
眼下で、歯車スラムの住人たちが私たちに向かって手を振っていた。錆喰いたちが、空の上で手を振っている。
父さんが頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「やったな、エダ。世界を、直しただけじゃなくて、軽くしたな」
私は父のレンチを握りしめた。重かったはずのレンチが、今はもう全然重くなかった。
創立祭まで、あと63時間。
私たちは家を取り戻した。でもクジラは、一人で空の向こうへ行ってしまった。
零が作業着の袖を引っ張った。
「……エダ。クジラ、呼んでる。『待ってる』って」
空の向こう側で、クジラの鳴き声が風に乗って聞こえた気がした。
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
街、落ちなくてよかった。
私の工房も、工具たちも、無事だった。
ねえ、クジラ、どこへ行ったんだろうね。
空の向こう側って、何があるんだろう。
もし君も一緒に、クジラを探しに行ってくれるなら、《《ブックマークと★5つ》》を押してくれ。君の応援が、ハチドリの燃料なんだ。
次回、私たちは雲の上の街に帰る。
中毒的な日常と、次なる目的地。
感想待ってる。クジラに、やっぱり名前を付けよう。何がいいと思う?
私は〈サビ〉って付けたいんだけど、マルゴがダサいって言うんだ。
……錆喰い、ただいま。
――エダ・ファルク




