第8話 標準機関と、錆喰いのレンチ
黒いエンジンは、苦しんでいた。
音はない。でも私には分かった。
塔の先端で熱を放つ、帝国が作った新しい神様。
そいつは、悲鳴を上げていた。
『標準機関、起動。第七捕獲モードへ移行。出力120%』
無機質なアナウンスが、上層全体に響いた。上層の人間たちは歓声を上げた。
「やった! 新しいエンジンだ! これで錆喰いたちを切り離せる!」
違うよ。あなたたちが切り離そうとしているのは、重りじゃない。土台なんだ。
「エダ! どうする! あれに当たったら、また落ちる!」
マルゴが叫んだ。クジラの背中に乗ったエリジウムは、まだふらふらと泳いでいるだけだ。黒いエンジンの熱線がクジラに触れたら、一発で終わりだ。
父さんが私のレンチを見た。
「エダ、壊せって意味じゃない。あれも機械だ。お前になら声が聞こえるはずだ」
声。そうだ。私は修理屋だ。
私は共鳴レンチを、黒いエンジンに向けた。今までで一番遠い相手だ。届くか分からない。
ブゥン!
世界がまた静かになった。
聞こえた。
……苦しい。熱い。回りたくない。でも回らなきゃいけない。命令だから。止まれない。助けて。
ああ。こいつも同じだったんだ。第七と同じ。誰かに無理やり回されているだけだ。悪いのはエンジンじゃない。
鼻の奥で、ツンと鉄の匂いがした。共鳴のしすぎで、鼻血が出ていた。一章でエレベーターを直した時と同じだ。
「……零、手を貸して」
零の手を握った。胸の歯車が高速で回っている。
「零の糸で、私の声をあの子まで届けて。『回らなくていいよ』って」
零は頷いた。青い目を閉じて、背中から伸びた真鍮の糸を、今度は黒いエンジンに向かって伸ばした。糸は熱線をすり抜けて、黒いエンジンの中心に突き刺さった。
「……え?」
白いコートの技師たちがざわめいた。黒いエンジンの動きが鈍り、熱線が消えた。
共鳴レンチを通して、あの子に話しかけた。言葉じゃない。振動で。
『大丈夫だよ。もう回らなくていい。休んでいいんだよ』
黒いエンジンが小さく震えた。今まで120%で回っていた心臓が、トン、と一回だけ鼓動して止まった。自ら、止まったんだ。命令に逆らって。
塔の上から、黒いエンジンは力を失ってゆっくりと倒れていった。誰も傷つけずに、ただ静かに横たわった。
上層の人間たちの歓声が悲鳴に変わった。
「標準機関が……止まった!? なぜだ!?」
その時、空から影が降ってきた。ハチドリ便だ。機体は煤だらけで、気嚢にはピッパの花火の焦げ跡が付いている。無理やり塔の間を突っ込んできたんだ。
「お姫様方、お迎えに上がりましたよ! 早く乗って! 帝国軍が来る!」
「ジュリアン! 遅い!」
クヴィリンが一番に飛び乗った。ピッパが、マルゴが、父さんが続いた。私は零の手を引いて最後に飛び乗った。クジラの背中から、ハチドリの荷台へ。
眼下では、目を覚ましたクジラが、黒いエンジンを横目にゆっくりと、でも確実に青い空の向こうへ泳ぎ始めていた。背中には下層の街を乗せたまま。
創立祭の鐘がまた鳴った。でももう祝いの鐘じゃなかった。警報の鐘だった。
『全市民に告ぐ。第七釜炉の暴走により、エリジウムは航行不能。繰り返す、航行不能』
嘘だ。暴走じゃない。私たちはやっと飛び始めたんだ。
父さんが隣で空を見上げて呟いた。
「エダ。お前が直したのは、機械じゃない。世界だな」
私は父のレンチをぎゅっと握りしめた。重かったはずのレンチが、今日は少しだけ軽く感じた。
創立祭まで、あと64時間。
私たちの大陸は、帝国から逃げ出した。
行くあてもない、青い空へ。
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
ねえ、聞こえた? 黒いエンジンの声。
あの子も、ずっと苦しかったんだ。
壊すんじゃなくて、休ませてあげられてよかった。
もし君が、私のレンチの音をもう少し聞いてくれるなら、《《ブックマークと★5つ》》を押してくれ。君の応援がないと、このクジラ、本当に迷子になっちまうんだ。
次回、空の向こう側へ。
帝国が追ってくる前に、私たちはどこへ行くのかな。
感想待ってる。黒いエンジンにも、名前を付けてあげたいんだ。何がいいと思う?
……錆喰い、今日も飛ぶぞ。
――エダ・ファルク




