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第7話 クジラは飛ぶ

世界が傾いた。


ドクン、という心臓の鼓動と同時に、エリジウム全体が傾いた。

観測デッキ(かんそくデッキ)の床が、壁になった。工具や計器が滑り落ちていく。

私はとっさに手すりに掴まった。零(ゼロ)の手は、まだ私の手を握ったままだった。


「うわぁぁぁ! 落ちる! 落ちるよエダちゃーん!」


ピッパがマルゴにしがみついて泣き叫んでいた。クヴィリンは逆に冷静だった。いや、諦めていた。


「計算通りだ……第七釜炉(だいななかまろ)が心臓に戻ったことで、浮遊バランスが崩れた。三十度右に傾斜。このままでは下層が剥がれて落ちる。非効率にも程がある……!」


その時、背後から温かい手が背中を支えた。


父さんだった。

ガルス・ファルク(ガルス・ファルク)。私の知っている父さんよりずっと痩せて、白い作業服が汚れている。でも目の色は変わっていなかった。機械を見る時の、あの頑固な目だ。


「エダ、よくやった」


「お父さん……なんで……なんで私を置いて……」


言いたいことは山ほどあった。でも声が出なかった。傾いた床の上で、父さんは私の頭に手を置いた。油と鉄の匂いがする手だった。


「ごめんな。時間がなかったんだ。第七はな、最初から釜炉じゃなかった。こいつは、世界を運ぶクジラだったんだ」


クジラ。零が言っていた通りだ。


「帝国が空に都市を作る時に、海から連れてきて無理やり釜炉に改造した。こいつが泳ぐのをやめたから、エリジウムは浮いているように見えていただけなんだ」


床がまた大きく揺れた。今度は左に。クジラが暴れている。管を引き抜かれて、自由になった体をどう動かせばいいか分からないみたいに。


零が苦しそうに胸を押さえた。私がはめた小さな歯車が凄い速さで回っている。


「……痛い……体が、重い……飛び方が、わからない……」


ずっと繋がれていたんだ。飛び方を忘れてしまったんだ。


父さんが続けた。


「帝国は新しい〈標準機関(ひょうじゅんきかん)〉を作った。上層だけで飛べる、言うことを聞くエンジンだ。そのためには、このクジラが邪魔なんだ。だから創立祭の日に殺して、下層ごと切り離すつもりだった」


「重りって、そういうことだったのか……」


マルゴが床にへばりつきながら呟いた。元主任の彼女は、全てを知っていた顔をしていた。


「私も、手伝わされていたんだよ、エダ。新しいエンジンの設計をね。途中で気づいたんだ。これじゃ下の人間が全部死ぬって。だから逃げた。お前の父さんと一緒にね」


私は父のレンチを握りしめた。共鳴レンチ(きょうめいレンチ)がまた熱を持ち始めた。今度は悲鳴じゃない。零の心臓とクジラの心臓の、二つの鼓動が手の中で重なっていた。


直すな、動かせ。


父さんの言葉の意味が、やっと本当の意味で分かった。


「零。深呼吸して。飛ぶんじゃない。泳ぐんだ。空を、泳ぐんだよ」


背中に手を当てた。共鳴レンチを、真鍮の糸が伸びている場所に当てた。


「私が舵になる。だから、零は思った通りに動いて」


零は私の目を見た。青い目が涙で濡れていた。無感情なはずの子が、泣いていた。


「……一緒に?」


「一緒にだよ。錆喰い(さびくい)と、神様で、空を泳ぐんだ」


零は頷いて目を閉じた。


次の瞬間、クジラが吠えた。


今までの機械の音じゃない。生き物の雄叫びだった。第七釜炉だった場所から、真っ白な蒸気じゃない、透明な風が噴き出した。その風がエリジウム全体を包み込んだ。


傾いていた大陸が、ゆっくりと水平に戻っていく。いや、戻るんじゃない。浮き上がるんだ。下層の重りを切り離すんじゃなくて、下層ごと持ち上げようとしているんだ。


その時、無線からジュリアンの声が聞こえた。


『おい、エダ! 聞こえるか! ハチドリ、戻ったぞ! 下層は今大パニックだ! でもみんな空を見てる! クジラが、飛んでるって!』


窓の外を見た。上層の人間たちがマスクを外して空を見上げていた。蔑んでいたはずの錆喰いの街が、今クジラの背中に乗って青い空を泳いでいる。


上層は、上層で、古い補助の標準機関が悲鳴を上げながら何とか浮いていた。第七がいなくなっても、数時間は持ちこたえられる、と父さんが昔言っていた、緊急用の浮遊エンジンだ。だが長くは持たない。


でも、喜んだのも束の間だった。


上層の中央、帝国工務局の塔から黒い煙が上がった。白い蒸気じゃない、真っ黒な煙だ。そして塔の先端が開き、中から巨大な真っ黒なエンジンが顔を出した。〈標準機関〉だ。完成していたんだ。


エンジンが、私たちに向かって熱を放ち始めた。クジラをまた捕まえるために。


父さんが肩を掴んだ。


「エダ、あれを止めないとまた繋がれてしまう。お前のレンチで、あのエンジンの心臓を止められるか?」


私のレンチは修理するための道具だ。壊すための道具じゃない。


でも、直す方法は壊す方法でもあるはずだ。


私は零の手を強く握り返した。


「やってみる。だって、私は錆喰いの修理屋だから」


創立祭(そうりつさい)まで、あと65時間。

エリジウムは神様の背中に乗って、初めて自分の力で飛び始めていた。そして私たちの前には、帝国が作った言うことを聞く新しい神が立ちはだかっていた。

ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。


ねえ、空、泳げたよ。私たち、落ちなかった。

もし君がこの先も一緒に泳いでくれるなら、《《ブックマークと★5つ》》を押してくれ。あの黒いエンジン、君の応援がないと止められないんだ。


次回、修理屋は神様を直すんじゃない。神様と一緒に、帝国を直す。


感想待ってる。クジラの名前、何がいいと思う? ピッパは〈ピカピカちゃん〉って言ってるけど、却下だ。


……錆喰い、最高だな。


――エダ・ファルク

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