第6話 心臓と、小さな歯車
目の前の光景は、釜炉じゃなかった。
赤黒い肉の塊。直径は私の工房の十倍はあった。
ドクン、ドクンと鈍い音を立てて脈打つたびに、周りの真鍮の骨組みがきしむ。
そこに突き刺さった何十本もの管が、その脈動から蒸気を吸い出していた。生き物の血を抜いているみたいだった。
「……第七釜炉」
零が隣で呟いた。いつもは無表情なのに、その声は少し震えていた。
「痛い。とても、痛い。助けて、エダ」
初めて、私の名前を呼んだ。
観測デッキの下では、白いコートの技師たちが笑いながら計器を見ていた。
「よし、圧力68%まで低下。順調だな。創立祭の花火のタイミングで完全に止めれば、事故に見せかけられる。下層の重りが外れれば、この大陸はもっと高く飛べる」
重り。
私たちの家や工房や生活の全てを、重りと呼んだ。
頭の中が真っ白になった。気づいたら、手すりを乗り越えていた。
「エダ! 馬鹿、何やってる!」
マルゴが叫んだ。でも止まらなかった。父のレンチを握りしめて、保守用の梯子を駆け下りる。心臓の鼓動がどんどん大きくなる。熱い。息ができない。
「おい、誰だ!? 封鎖区画だぞ!」
技師の一人が警棒のような工具を振り上げた。
その時、上から甲高い声が降ってきた。
「そこだぁ! エダちゃんをいじめるなぁぁ!」
ピッパだ。手すりに立って、最後の〈泣き虫蒸気菊〉を抱えている。
「ピッパ特製、超・閃光玉、いっくよー!」
投げた。花火は技師たちの真ん中で弾け、音も煙もなく、ただ純白の光だけが広がった。技師たちは目を押さえて悲鳴を上げた。
「今だ、エダ!」
クヴィリンが叫んだ。いつもの嫌そうな顔じゃなかった。必死だった。
「その歯車! 心臓にはめるんじゃない!
零にだ! 零の胸の00って刻印があるだろ! そこだ!」
零に?
はめるな、繋げ。そういうことか。
私は零の元へ走った。零は自分から胸元の服を少しだけ開けた。そこには小さな歯車の形をした窪みがあった。私の手の中の歯車と、全く同じ形だ。
「……お父さんが、作ってくれた。私が、動くための」
震える手で、父が作った小さな歯車を窪みに押し当てた。
音はしなかった。けれど確かな感触と共に、歯車は吸い込まれるように収まった。そして、回り始めた。
止まっていた零の瞳に、初めて光が宿った。灰色だった目が、淡い青に変わった。
「……起動。第七釜炉、再接続。動力、伝達開始」
零の背中から、無数の細い真鍮の糸が伸びた。糸は空を舞い、天井を突き破り、あの巨大な心臓へと繋がった。
ドクン!
心臓が一回だけ大きく跳ねた。管から吸い出されていた蒸気が逆流し始めた。技師たちの計器が狂ったように警報を鳴らす。
「な、何だ!? 圧力が逆流してる!? 止めろ!」
心臓が、管を自らの力で引き抜いていた。ブチブチという音を立てて管が外れ、床に落ちる。傷口から、真っ白な蒸気じゃない、温かい、潮の匂いがする風が吹き出した。
その風は、私の頬を撫でた。懐かしい匂いだった。父の工房の、油じゃない方の匂い。
「エダ」
背後から声がした。保守通路の影からだ。
白い作業服を着た痩せた男が立っていた。作業服は油で汚れている。私の工房と同じ匂いだ。
父さんだった。
「やっぱり、お前は直さなかったな。動かしたな。さすが私の娘だ。……でも、遅かったかもしれない」
父さんが指さす先。観測デッキの窓の外で、創立祭を告げる予報の鐘が鳴り始めていた。そして同時に、帝国全土に響き渡る警報が鳴った。
『緊急事態。第七釜炉、暴走。自我を獲得。全作業員、退避』
暴走じゃない。目覚めたんだ。
巨大な心臓が大きく息を吸い込んだ。エリジウム全体がぐらりと傾いた。下層の街から悲鳴が聞こえた。
零が私の手を握った。今度は袖じゃなくて、指先を直接。
「エダ。怖い。一緒に、飛ぼう」
創立祭まで、あと66時間。
私たちは神様の心臓の上で、空から落ちるか、空へ飛ぶかの選択を迫られていた。
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
父さん、やっと出てきた。……ちょっと痩せすぎじゃないか? ちゃんと食べてるのか、あの人。
ねえ、この先どうなると思う? 第七は、本当に飛べるのかな。私にも、まだ分からない。
続きが気になったら、《《ブックマークと★5つ》》を頼む。君の応援が、この大陸を支えてるんだ。本当に。
次回、クジラは飛ぶ。私のレンチと一緒に。
感想待ってる。零に、桃の缶詰以外で何か食べさせたいんだけど、何がいいと思う?
……錆喰いって、もう私の名前だな。
――エダ・ファルク




