第10話 雲の上の街と、帰り道
雲の上の街は、静かだった。
ハチドリ便が、蒸気の雲の上にふわりと降り立った。
私たちが住んでいた歯車スラムが、そのまま雲の上に乗っている。
家も、工房も、錆びた看板も、全部そのままだ。ただ、地面が土じゃなくて、白い雲になっているだけ。
ハッチを開けると、下層の住人たちがぽかんと口を開けていた。
「……エダちゃん? あんた、空から降ってきたのかい?」
隣のパン屋のおばちゃんが言った。
何と答えていいか分からなかった。空を飛んで、クジラを逃がして、街を雲の上に置いてきた。信じてもらえるだろうか。
その時、ピッパが飛び降りて大声で叫んだ。
「みんなー! ただいまー! エダちゃんが、世界を直したよー! この街、今、雲の上に浮いてるのー!」
一瞬の静寂の後、歓声が上がった。子供たちが雲の上を走り回る。雲は綿みたいに柔らかいのに、沈まない。
私の工房も無事だった。扉を開けると、工具たちが傾いたままの机の上に散らばっている。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、呟いた。
「おかえり、エダ」
マルゴが後ろから言った。自分のフラスコじゃなくて、パン屋のおばちゃんからもらった水を飲んでいた。
「久しぶりに、地上の味がするね」
父さんが工房の中を見回して笑った。
「変わってないな。お前が小さい頃に作った、ガラクタの山もそのままだ」
「ガラクタじゃない! 大事な部品だ!」
いつものやり取りだ。でも、少しだけ涙が出そうになった。
クヴィリンはさっさと屋根裏に登って、雲の成分を調べ始めていた。
「……なるほど。この雲は、第七の古い蒸気が冷えて固まったものだ。浮力はあるが、第七自身の体温で温められないと不安定だ。48時間もすれば冷えて消える。つまり、この街は48時間後にまた落ちる」
48時間。
創立祭まであと62時間あったはずなのに、街の寿命はもっと短い。
「じゃあ、どうすればいいの?」
ジュリアンが燃料計を見ながら言った。燃料は、もうほとんどない。
「クジラを、呼び戻すしかない。あいつがまた下に潜ってくれれば、この街はまた背中に乗れる」
零が窓の外の空を見ながら言った。胸の歯車はゆっくりと回っている。
「……呼んでる。クジラ、呼んでる。『寒い』って。『一人だ』って」
私は父のレンチを握りしめた。共鳴レンチはまだ温かい。
「行こう。迎えに行こう」
「無茶言うな! 燃料もないのに、どうやって空の向こうまで行くんだ! 第一、クジラがどこにいるかも分からないんだぞ!」
クヴィリンの言う通りだった。でも、行かないという選択肢はなかった。
その時、ジュリアンがハチドリの荷台から黒い塊を下ろした。塔から落ちた、標準機関の欠片だ。まだ少しだけ熱を持っている。
「おっと、忘れてた。記念に拾ってきたんだ。使えるか?」
ピッパがそれを持ち上げた。
「エダちゃん、これ、使えないかな? この子も、まだ動きたいって言ってるよ」
ピппаは機械の声が聞こえるわけじゃない。でも爆弾の気持ちはいつも分かっていた。
そうだ。黒いエンジンも、苦しかったんだ。回りたくないのに回らされていた。だったら、今度は自分の意思で回らせてあげればいい。
「……できるかも」
私は、黒いエンジンの欠片と父が作った歯車の残りと、自分のレンチを並べた。三つの鼓動が同じリズムで震えている気がした。
直すんじゃない。繋げるんだ。
工房の真ん中で工具を広げた。下層の住人たちが窓から覗いている。
「みんな、手伝って! 雲の上の街を、もう一度飛ばすんだ! クジラを迎えに行くんだ!」
私の声で、歯車スラムの住人たちが動き出した。パン屋のおばちゃんが燃料を持ってくる。隣の鍛冶屋のおじさんがハンマーを持ってくる。子供たちがネジを集めてくる。
錆喰いたちの修理が、始まった。
空の向こう側から、またクジラの鳴き声が聞こえた気がした。
今度は、寒いという声じゃなかった。
『待ってる』という声だった。
創立祭まで、あと62時間。
雲の上の街の寿命は、あと48時間。
私たちは、落ちる前に、空の向こうへ行かなければならない。
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
ただいま、って言ったら、おかえりって返ってきた。
工房も、街も、みんな無事だった。よかった。
ねえ、君も、雲の上に立ってみたいと思わない? ふわふわで、ちょっとだけ沈むんだ。面白いよ。
もし君も、この街と一緒にクジラを迎えに行きたいと思ってくれたら、《《ブックマークと★5つ》》を押してくれ。あれが、私たちの新しい燃料なんだ。
次回、錆喰いたちの総力戦。
帝国なんかに、私たちの空は渡さない。
感想待ってる。雲の上の街に、何か新しい名前を付けたいんだ。何がいいと思う?
……錆喰い、ただいまっ、てやっぱりいいな。
――エダ・ファルク




