第23話 新しい星の海と、最後の工具箱
扉の向こうの星の海は、匂いが違った。
今までの星の海は、潮の匂いと、油の匂いがした。でも、新しい海は、何も匂いがしない。綺麗すぎる。誰も住んでいない、新品の海みたいだ。
「…静か…すぎる」
零が、私の手を握りながら呟いた。胸の錆色の歯車の音だけが、星の海に響く。他のクジラの街の音も、母なるクジラの歌も、扉の向こうに置いてきた。ここには、私達と、チビと、リナのハルモニアだけしかいない。みんなは、新しい航路の整備のために、一度星の海の入り口で待つって言ったんだ。先遣隊は、私達だけだ。
「ここ、本当に誰もいないのかな…?」
ピッパが、不安そうに周りを見回す。花柄のワンピースは、もう完全に作業着に戻っている。やっぱり、こっちの方が似合う。
クヴィリンが、計算機を叩きながら言う。
「星の密度が、異常に低い。何もないはずだ。帝国が、誰も来ないように、何もない海を作ったんだ。効率的だが…つまらない」
つまらない、か。確かに、何もないのは、つまらない。直すものがないんだから、修理屋は暇だ。
その時、ハチドリの探知機が、小さく鳴った。ピッ、という小さい音だ。
「ん? 何かあるぞ? 凄く小さいけど、何か…ある…」
ジュリアンが、探知機の示す方向にハチドリを向ける。何もないはずの星の海の真ん中に、小さな、小さな箱が浮かんでいた。工具箱だ。私の工房にあるのと同じ、ボロボロの、錆びた工具箱だ。
私は、ハチドリから身を乗り出して、その工具箱を拾い上げた。重い。中に、何か入っている。
蓋を開ける。中には、一本のレンチが入っていた。私の父のレンチと、そっくりな。でも、新品だ。一度も使われたことのない、ぴかぴかのレンチだ。そして、その横に、小さな紙切れが入っていた。
――次の錆喰いへ。世界は、君が直せ。――
次の錆喰い。
私は、その紙を、零に見せた。零は、紙を見て、小さく笑った。
「…エダの、字、じゃない。でも、エダの、匂いがする。未来の、エダの」
未来の、私の。
そうか。ここは、誰もいない海じゃない。私が、これから作る海なんだ。私が、これから置いていく、工具箱なんだ。
私は、新品のレンチを握りしめた。父のレンチより、少しだけ軽い。でも、同じように温かい。
「…置いていこう」
私がそう言うと、みんなが私を見る。
「ここに、この工具箱を置いていこう。次の迷子が、ここに来た時に、困らないように。修理屋の道具を、置いていこう」
私は、自分の工具箱から、一番大事なものを取り出した。私が初めて自分で買った、小さな予備の共鳴レンチだ。父からもらった古いレンチじゃない。私の手に馴染む前の、未来のためのレンチだ。
私は、その予備のレンチを、新品の工具箱の中に入れた。父のレンチは、私の腰に残る。古いレンチと、新しいレンチ。終わりと、始まりは、別々の場所にある。
そして、工具箱を、また星の海に浮かべた。ゆっくりと、星の海の真ん中に、浮かんでいく。誰かが拾ってくれるまで、そこにあるんだ。
チビが、その工具箱に向かって、小さく鳴いた。
『…ありがとう、の歌だって。次の子が、喜ぶ歌だって』
次の子。
私は、ハチドリの舵を取って、来た道を振り返った。扉の向こうで、母なるクジラたちが、私たちを待っている。エリジウムのみんなも、待っている。
「帰ろう、みんな。次の仕事の時間だ」
星の海の航海日誌、10日目。私たちは、未来の修理屋のために、工具箱を置いてきた。錆喰いの仕事は、こうやって繋がっていくんだ。
あとがき ― エダ・ファルクから
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
ねえ、工具箱、見つけてくれた? 中に、私のレンチ、入れておいたよ。君が困った時に、使ってね。
もし君が、この工具箱を拾ってくれたなら、ブックマークと★5つを押してくれ。君の応援が、次の錆喰いへの合図になるんだ。
次回、帰還。星の海の先遣隊、エリジウムへ帰る。
感想、待ってる。君の工具箱には、何が入ってる? 私は、やっぱり油と、絆創膏だな。
……錆喰い、次へ繋ぐぞ。
――エダ・ファルク




