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第2話 零と屋根裏の天才

エリジウム全体を揺らした咳は、数秒で止まった。


でも、床に伝わる振動は止まらなかった。

壁も、空気も、低い唸り声を上げている。


検査官は一瞬ひるんだが、黒いマスクの奥で舌打ちした。


「第七釜炉の一時的な圧力低下だ。問題ない。……それより、その個体だ。回収する」


検査官は零(ゼロ)の腕を掴もうとした。


その時だ。


零は動かなかった。ただ、無表情に検査官を見上げただけ。


次の瞬間、検査官の持っていた標準工具箱が、バチン! と弾け飛んだ。留め具もないのに、勝手に。


「……触らないで。あなた、嫌い」


無感情な声だった。でも、拒絶だけははっきりしていた。


検査官が一歩後ずさる。その隙に、マルゴがするりと間に入った。


手にはいつの間にか、父の棚の奥に隠してあった一番高い蒸留酒の瓶があった。私が盗むなと張り紙までしたやつだ。


「まあまあ、検査官さん。暑い中ご苦労さま。ほら、喉が渇いたでしょ? これは上層の技官しか飲めない雲上ブランデー(うんじょうブランデー)だよ。下層で見つかるなんて、奇跡だね」


分かりやすい賄賂だ。


検査官はマスクの下で迷っているのが分かった。マルゴはさらに声を潜める。


「この子はね、うちの工房の旧型の自動人形なの。父から譲り受けた骨董品でさ。登録? もちろんしてあるよ。ほら、首の後ろに刻印が……あ、錆びて読めないや。整備不良だね。48時間以内に工務局に連れて行って、再登録するからさ」


全部嘘だ。でも、マルゴの嘘は妙に説得力があった。


検査官は瓶をひったくるように奪い取った。


「48時間だ。第三窓口にその個体を連れてこい。連れてこなければ、この工房だけでなく、この区画全体を封鎖する(後でマルゴが窓口に賄賂を増額して記録を消した、と語られる)」


そう言い残して、検査官は私が直したばかりのエレベーターに乗り込んだ。嘘みたいに滑らかに動き、上層へ上がっていった。


残されたのは、私とマルゴと、ハッチの中の零だった。住人たちはさっきの揺れに怯えて、もう散り散りになっていた。


「助かった。ありがとう、マルゴ」


「礼なら酒で返しな。あの瓶、10万ギアしたんだからね。父さんの隠し財産、没収ね」


マルゴはふらりと工房へ戻っていった。私は零に手を差し伸べた。


「降りられる?」


零は私の手をじっと見た。そして、油で汚れた指先を避けるように、袖の部分だけを掴んだ。


「……汚い。でも、温かい」


それが、彼女なりの精一杯の礼だったのかもしれない。


工房に戻ると、マルゴはいつものように私の椅子を占領していた。

零はベッドの隅にちょこんと座り、棚の隅にあった桃の缶詰を無言で見つめていた。


「食べる?」


缶切りを渡すと、零は無言で頷き、ものすごい勢いで食べ始めた。シロップだけを先に飲み干して、果肉は後で一つ一つ味を確かめるように食べる。変な偏食だ。


「で? あの子は何なのさ」


天井から声が降ってきた。


見上げると、天井の点検ハッチが開いていた。設計図の束と埃だらけの私の物置だ。そこから、はしごも使わずに一人の男が降りてきた。


クヴィリン・ヴァルト(クヴィリン・ヴァルト)。十九歳。元帝国工学院主席。現在、引きこもり。


髪はボサボサ、目の下にはクマ。学院の制服を部屋着代わりに着ている。


「うるさい。寝ていたのに、馬鹿みたいにデカい咳のせいで起きた。しかも下では女が二人、大声で違法行為の自慢か? 消えてくれ」


「誰が消えるのよ! あんたが勝手に屋根裏に住み着いてるんでしょ!」


この男は天才だ。図面を見ただけで機械の欠陥が分かる。でも人間が大嫌い。特に私みたいに真面目なタイプが一番嫌いらしい。


クヴィリンは零を見て、ピタリと動きを止めた。


「……君、何?」


零は桃を口に入れたまま、無表情で見返す。


「零。第七釜炉(だいななかまろ)の監視端末。あなたは、嫌いじゃない。匂いが、埃っぽい」


「褒め言葉として受け取っておく」


クヴィリンは興味を持ったらしい。見たこともない計測器を取り出して、零の周りをウロウロし始めた。


「なるほど……これは自動人形じゃない。生体と機械のハイブリッドだ。骨格は真鍮じゃない、もっと柔らかい……神経束でできてる。君、エリジウムの神経そのものなのか?」


零は答えなかった。代わりに、私の共鳴レンチ(きょうめいレンチ)を見た。


「そのレンチ。あなたの父の。ファルク主任の」


息が止まった。


「お父さんを知ってるの?」


「知っている。第七釜炉で、一緒に仕事をしていた。彼が、第七釜炉を殺さないように、私を隠した」


マルゴが、椅子からゆっくり起き上がった。いつものだらしない顔が消えていた。


「エダ。言ってなかったけどさ。あなたのお父さん、追放されたんじゃないよ。自分から上に行ったんだ。第七釜炉を止めろって命令が出た時に、反対してね。上層は、あの釜炉が目覚めるのが怖いんだよ」


第七釜炉が目覚める? 殺される?


クヴィリンが計測器の数値を見て舌打ちした。


「最悪だ。第七釜炉の蒸気圧が急激に下がっている。誰かが意図的に抜いている。計算上は、72時間だ。72時間後に第七釜炉は完全に停止する。そうなれば、この浮遊大陸はバランスを崩して傾く」


72時間。3日後。3日後といえば……


「……創立祭」


マルゴが呟いた。帝国がエリジウムの浮上を祝う、一番大きな祭りだ。


「祭りの最中に、釜炉を止める気だ。事故に見せかけて」


その時、工房の外でドカン!! という爆発音がして壁が揺れた。黒い煙が窓から入ってきた。


「あはは! 成功したー! エダちゃーん、見て見て! 新しい花火ー!」


煙の中から、煤だらけの顔で手を振る少女が、超高速で突っ込んできた。


ピッパ・シュトゥルム(ピッパ・シュトゥルム)。十五歳。工房の火薬庫兼、トラブルメーカーだった。

エダだ。2話まで読んでくれてありがとう。


零、桃の缶詰5個食った。シロップだけ先に飲むタイプ。偏食にも程があるだろ。

屋根裏には引きこもり天才、隣ではピッパがまた洗濯物を黒くした。うちの工房、平和な日が一日もない。


父さんのメモ、やっと見つかったのに……なんで直接言ってくれないんだよ。馬鹿。


続き、ちょっとだけ気になるでしょ?

なら《《ブックマーク》》押してくれると、零が……いや、私が喜ぶ。


次回、ハチドリ便が来る。空って、どんな匂いするんだろうな。


――エダ・ファルク

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