第1話 コギちゃん
歯車スラムの霧は、朝になっても晴れない。
重く湿った蒸気だ。油と鉄錆の匂いが混ざっていて、息を吸うたびに歯の奥がざらつく。
私の古い釜炉がまた咳をした。
コンコン、と情けない音。
私は布団から起き上がり、まだ温かい腹を叩いた。
私の名前はエダ・ファルク。十七歳。
職業刻印はFランク。帝国で一番役に立たないと言われている刻印だ。
工房はたったの三畳間。
壁に掛かった父の形見の巨大なモンキーレンチと、散らかった工具だけが財産だ。
扉に赤い紙が貼ってあった。
帝国工務局の封印だ。見ただけで胃の底が冷たくなる。
『物件734-B 取り壊し決定
理由:標準規格不適合
猶予:30分
取り消し条件:連絡昇降機・エレベーターNo.7の完全復旧』
連絡昇降機。
私たちのスラムと上層を繋ぐ唯一のエレベーターだ。昨日から止まっていた。
あれが止まると、下層は終わりだ。食料も、仕事も、全部止まる。
「うわ、赤紙だ。君、終わったね」
振り向くと、作業台の上にマルゴ・ルブランが寝転がっていた。
二十八歳。元・第三釜炉主任。
怠惰で無責任で、昼間から蒸留酒の入った圧力計付きフラスコを抱えている女。父の元弟子で、今は工房に居候している。
「また私の設計図の上で寝ないで!」
「だってエダのベッド、工具だらけで硬いんだもん」
ごろりと寝返りを打って、彼女は言った。
「あ、エレベーターの話? 上に偉いのが一人閉じ込められてるらしいよ。だから上は必死。直せなきゃ、スラムごと見せしめに潰す気だよ」
外からサイレンが聞こえた。検査官だ。もう来ている。
私は内ポケットを探った。硬いものが当たる。
父が工学院を追放された時、唯一持ち帰ったもの。
共鳴レンチ。
正式名称は聴音式共鳴整備器。機械の振動を直接神経に伝える違法工具だ。
これを使った整備は〈非標準修理〉として禁じられている。見つかれば、私も父みたいに連行される。
でも、他に方法はない。
私はレンチを掴んで、昇降路へ走った。
真鍮と黒鉄でできた巨大な箱が、宙吊りになって止まっていた。周りには下層の住人が集まって、不安そうに叩いたり叫んだりしている。中からは子供の泣き声が聞こえる。
標準工具箱を開けた。
ダメだ。駆動歯車の歯が、根本から摩耗している。交換するしかない故障だ。でも、交換用の歯車なんてない。帝国は私たちに予備部品をくれない。
どうする。諦めれば父の工房が、私の居場所が、全部なくなる。
「……ごめん、お父さん」
私はレンチを外装に当てた。スイッチを入れる。
ブゥン!
世界中の音が消えた。代わりに流れ込んできたのは、悲鳴だった。
機械の悲鳴。七十年間、一度も休まず人を運び続けた疲労。合わない部品を無理やり押し込まれた、擦り切れた関節の痛み。誰にも気づかれず、ずっと我慢していた孤独。
この子は、壊れていたんじゃない。疲れていたんだ。
「大丈夫。分かったよ。君の歯車は、まだ生きてる」
私は標準のやり方を捨てた。新しい歯車を入れるんじゃない。古い歯車を、直す。
ヤスリを当てる。火花が散る。蒸気が指先を焼く。熱い。痛い。
でも、共鳴レンチを通して、歯車が喜んでいるのが分かる。削られるたびに、噛み合わせが合っていく。
「動いて……お願い!」
最後の一削りで、レンチが手の中で高く共鳴した。
キィィン、という澄んだ音。
エレベーターが大きく震えた。止まっていた天井のランプが一斉に点き、ワイヤーが巻き上がる音がする。
直った。私が、直した。
鼻の奥がツンとした。指で拭うと、薄く血が付いていた。共鳴レンチの使いすぎだ。父さんのノートに書いてあった症状と同じだ。
住人から歓声が上がる。でも、その時だ。
側面の、整備マニュアルにも載っていない場所が、ギ……という音を立てて開いた。隠しハッチだった。
中は配線と蒸気管でできた巣のようになっていて、その真ん中に人がいた。
十七歳くらいのはずなのに、栄養が足りないせいか十四歳くらいにしか見えない女の子だった。真っ白な肌、灰色の髪。胸に00という番号が振られた薄い作業服。
彼女はゆっくり目を開けた。感情のない、ガラスのような灰色の目で私を見た。
「……不適合な修理を検出。エレベーターNo.7の振動パターン、臨界値を超過。死にます」
「誰だよ、君!」
「エダ・ファルク!」
怒鳴り声。振り向くと、黒い防毒マスクの検査官と、息を切らしたマルゴが立っていた。
マルゴは一瞬だけ私とハッチの中の少女を見て、目を見開いた。次の瞬間、いつものニヤニヤした顔に戻って、わざとらしく大声で言った。
「あー! 検査官さん、ごめなさいね! この子は私の助手なの。私が『ちょっとぐらい非標準でも直しちゃいなさい!』って言ったのよ。全部私の責任! このコギちゃんは、まだ未熟だからさ!」
コギちゃん。その変なあだ名で呼ばないで。
検査官は私を無視して、ハッチの中の少女を指差した。
「その個体は何だ。登録されていない。非標準個体か?」
少女は検査官ではなく、私の顔をじっと見た。
そして、私にしか聞こえないくらいの小さな声で、はっきりと言った。
「嘘。エレベーターNo.7は、死なない。殺される。あなたのお父さんに聞いて」
その直後、足元から、今までの釜炉の咳とは比べ物にならない、巨大な何かが地の底で肺を吐き出すような、重く苦しい振動がスラム全体を揺らした。
ここはエダだ。読んでくれてありがとう!
いきなり赤紙、エレベーター修理、蓋を開けたら女の子が寝てる。
初日から情報量多すぎだろ、私も疲れたよ。
この工房、ブックマークがないとマジで潰れるんだ。
面白いって思ったら《《☆とブックマーク》》だけでも置いてって。工具が買えるから。
次回、屋根裏から変なのが降ってくる。……いや、いい奴……多分。
……コギちゃんって呼ぶなってば!
――エダ・ファルク




