第17話 星の海と、迷子のクジラ
星の海は、思っていたより、静かだった。
ハチドリ便が、青い壁を越えてから、もう半日が経つ。周りは、どこを見ても星、星、星だ。昼も夜もない。ただ、星の光だけが、私たちの錆色の気嚢を照らしている。
「…静かだな」
ジュリアンが、操縦桿を握りながら呟いた。いつもうるさい彼が、珍しく小声だ。
「星の海って、もっと、ザザーって音がすると思ってたよ。海なんだから」
「非効率な感想だな。音は空気がないと伝わらない。ここは、ほとんどエーテルが薄い海に近いんだ。星が見えるのは、クジラの吐く蒸気が、光を反射してるからだ。計算通りだ」
クヴィリンはそう言いながらも、窓に張り付いて、星を数えている。屋根裏の天才は、星の数に夢中だ。
ピッパは、私の膝の上で寝ている。花柄のワンピースは、もう油まみれだ。やっぱり、あれは似合ってなかった。
零は、ずっと目を閉じていた。胸の錆色の歯車が、ゆっくりと回っている。時々、ビクッと体が震える。遠くの声を聞いているんだ。
「…近い。もうすぐ」
零が、小さく呟いた。
その時、ハチドリの前方で、星が一つ、消えた。いや、消えたんじゃない。何か大きなものが、星の光を遮ったんだ。
「ジュリアン! 止まって!」
私が叫ぶより早く、ハチドリが急停止する。目の前に、巨大な影が現れた。クジラだ。私たちのクジラじゃない。もっと小さくて、痩せていて、体中に黒い杭が突き刺さったままの、傷だらけのクジラだった。
迷子のクジラだ。
クジラは、私たちに気づいて、小さく鳴いた。私たちのクジラの、喜びの歌じゃない。助けを求める、悲鳴だった。
『…痛い…動けない…帰れない…』
私は、共鳴レンチを握りしめた。レンチが、熱を持つ。あの子の声が、直接聞こえる。
「零!」
零は頷いて、真鍮の糸を、迷子のクジラに向かって伸ばした。でも、届かない。距離がある。星の海は、思っていたより広い。
「エダちゃん、私、行ってくる!」
ピッパが、目を覚まして叫んだ。彼女は、ハチドリの荷台から、作りかけの花火を抱えて飛び降りようとする。無茶だ。ここは星の海だ。落ちたら、どこまでも落ちていく。
「駄目だ、ピッパ! 危ない!」
父さんの声だ。え?
振り向くと、そこに父さんがいた。いや、父さんじゃない。父さんの声がする、錆色の小さな機械だ。父さんが、私の工房でこっそり作っていた、お守りみたいな機械。父さんの声を録音した、共鳴拡声器だ。
『エダ、聞こえるか? 星の海では、声は届かない。振動で届けるんだ。お前のレンチと、あの子の糸を繋げて、橋を作れ。錆喰いのやり方でな』
橋を、作る。
そうだ。直すんじゃない。繋げるんだ。
私は、零の手を握って、共鳴レンチを、二人の手の真ん中に置いた。私の振動と、零の糸が、レンチを通して一つになる。錆色の光が、橋になる。
光の橋が、ハチドリから、迷子のクジラまで伸びていく。
クジラが、その橋に気づいて、ゆっくりと顔を上げる。黒い杭が刺さったままの顔だ。でも、目は、私達を見ていた。
『…来てくれたの…?』
来たよ。迎えに来たよ。
私は、光の橋を渡った。星の海の上を、歩いて渡る。怖くなかった。だって、零が手を握ってくれているから。
迷子のクジラの背中に降り立つ。杭は、十二本あった。私たちのクジラと同じだ。
一本目の杭に、レンチを当てた。
ブゥン。
『もう、刺さっていなくていいんだよ。抜けていいんだよ』
杭が、一本、また一本と抜けていく。抜けるたびに、クジラの体が、少しずつ光を取り戻す。
最後の杭を抜いた時、迷子のクジラが、大きく、深呼吸をした。そして、星の海に向かって、初めて、自分の歌を歌った。
小さな、でも、確かな歌だった。
遠くの方で、私たちの二匹のクジラが、その歌に答えるように鳴いたのが聞こえた。
星の海に、三匹のクジラの歌が重なる。
創立祭のカウントは、もうない。飛行祭も、終わった。でも、星の海の航海日誌は、今日から1日目だ。
私たちは、また一つの世界を、直した。
あとがき ― エダ・ファルクから
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
迷子のクジラ、見つけたよ。小さくて、痩せてて、でも、歌は綺麗だった。
ねえ、君の周りにも、迷子はいない? いたら、手を伸ばしてあげてね。橋は、誰でも作れるんだ。
もし君も、この星の海の続きを一緒に泳ぎたいと思ってくれたら、ブックマークと★5つを押してくれ。君の応援が、この小さなクジラの新しい歌になるんだ。
次回、三匹のクジラと、星の海の向こう側へ。まだまだ、助けを待ってる子がいるみたいなんだ。
感想、待ってる。この新しいクジラ、なんて名前にしようか? ピッパは〈チビちゃん〉って言ってるけど、却下だ。
……錆喰い、今日も直すぞ。
――エダ・ファルク




