第16話 星の海図と、小さな旅
飛行祭が終わって、三日目の朝。
街は、まだ少しだけ浮かれていた。広場には、花火の燃えカスと、パン屋のおばちゃんの屋台の残りが散らかっている。でも、誰も片付けようとしない。片付けてしまったら、祭りが本当に終わってしまう気がするからだ。
私は、工房の屋根の上にいた。父のレンチを膝に乗せて、星空の向こうを見ている。飛行祭の夜に見た、あの青い壁の向こうの星空だ。昼間でも、よく目を凝らすと、薄く見える気がする。
「何見てるんだ、エダ」
マルゴが、下から声をかけてくる。今日のマルゴは、珍しく白いコートを着ていない。錆色の作業着だ。私の工房にあった、一番小さいやつを無理やり着ている。似合ってない。
「星。向こう側」
「向こう側ねぇ…」
マルゴは、屋根に登ってきて、私の隣に座った。フラスコの中身は、今日は水だ。
「局長がさ、面白いこと言ってたよ。帝国の古い記録には、この大陸の外には、他にもクジラがいるって書いてあるんだって。エリジウムみたいな街を乗せたクジラが、星の海を泳いでるんだって」
他のクジラ。私たちのクジラ以外にも、いるんだ。
胸が、ドキンと鳴った。修理屋の血が騒ぐ。壊れたラジオを直したいと思う時と同じ、あの感じだ。
その時、工房の下から、バタバタと足音が聞こえた。ピッパとクヴィリンとジュリアンだ。そして、零。
「エダちゃん! 大変だよー! 零ちゃんが、また変なこと言い出したー!」
零が、私の顔を見て、小さく手を振る。胸の錆色の歯車は、今日も元気に回っている。
「…聞こえた。遠くから。『助けて』って。星の向こうから」
また、助けて、だ。
私は、立ち上がった。父のレンチが、また温かくなり始めている。今度は、悲鳴じゃない。呼びかけだ。誰かが、私たちを呼んでいる。
父さんが、工房の扉を開けて出てきた。手には、古い、ボロボロの本を持っている。星の海図だ。表紙には、私の知らない文字で、こう書かれていた。
――第七のクジラが帰る時、星の海の扉は開く――
「ガルス、これ…」
マルゴが、本を見て呟く。
「あ。私が上層で見つけたんだ。帝国が隠していた、本当の創立の記録だ。エリジウムは、最初からここにあったんじゃない。星の海の向こうから、クジラに乗ってきたんだってさ」
星の海の向こうから、来た。
じゃあ、私たちの本当の故郷は、あっちなのかもしれない。
ジュリアンが、ハチドリ便のエンジンを指さした。私たちが作った錆色のエンジンだ。飛行祭の間も、ずっと動き続けていた。
「燃料なら、まだあるぞ。雲の欠片を固めたやつが、まだ屋根裏に山ほどある。あれなら、星の海まで行けるかもしれないな」
「非効率だ! 計算では、成功率は12%だ!12%だぞ! 行く方が馬鹿だ!」
クヴィリンが叫ぶ。でも、その顔は、行きたくて仕方ない顔だった。屋根裏の天才は、新しい本を読みたくて仕方ないんだ。
ピッパが、私の手を握った。
「行こうよ、エダちゃん! 向こうにも、綺麗な花火があるかもしれないよ!」
みんなが、私を見ている。どうするか、決めるのは、私だ。錆喰いの修理屋の、最後の修理だ。
私は、父のレンチを高く掲げた。レンチが、昼間の星空の光を反射して、きらりと光る。
零が、私の袖を引っ張った。袖じゃない。指先を直接握ってきた。
「…一緒に。エダと、みんなと、クジラと」
一緒に。
私は、笑った。錆喰いの笑い方で、思い切り笑った。
「行くぞ、みんな! 星の海の向こうへ! 困ってるクジラを、直しに行くんだ!」
二匹のクジラが、私の声に答えるように、大きく鳴いた。雲の上の街が、また少しだけ浮き上がる。今度は、エリジウム全体じゃない。私の工房と、ハチドリ便と、私たちだけでいい。小さな、小さな旅だ。
父さんが、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「行ってこい、エダ。お前の修理は、もう世界一つじゃ足りないみたいだな」
創立祭のカウントダウンは、もう終わった。飛行祭も、終わった。そして、私たちの旅のカウントダウンは、今始まったばかりだ。
星の海まで、あと何日かかるか分からない。でも、怖くない。だって、みんな一緒だから。
ハチドリ便のエンジンが、錆色の光を放って、回り始める。星の海図が、風にめくれて、まだ誰も知らないページを開いた。
あとがき ― エダ・ファルクから
ここまで読んでくれてありがとう。ここはエダだ。
ねえ、聞こえた? 星の向こうからの『助けて』って声。君にも聞こえた?
もし君も、この続きを一緒に聞きたいと思ってくれたら、ブックマークと★5つを押してくれ。あれが、私たちの星の海図になるんだ。
次回、星の海へ。小さな修理屋の、大きな航海が始まる。
感想、待ってる。君は、星の向こうに何があると思う? 私は、美味しい料理とか、まだ見たことのない工具があると思うんだ。
……錆喰い、いってきます。
――エダ・ファルク




