第七章 戻らない先輩たち
数日後、第一中隊には珍しく出撃命令のない朝が来た。
完全休養というわけではない。基礎整備、座学、装備点検、簡易訓練。やることはいくらでもある。けれど、少なくとも今日すぐに空へ上がる必要はなかった。
そういう日には、基地の空気が少しだけ緩む。
訓練棟へ向かう途中、ミリアが珍しく軽やかな足取りで言った。
「ねえ、今日はさすがに飛ばなくていいんだよね?」
「予定表上はな」
ノエルが答える。
「上は、って何」
「帝国だから」
「それで通じちゃうのやだなあ」
ミリアが肩を落とした。
フィオナはその横で、なぜか少しだけ上機嫌だった。第六章以来、整備班から補助具の調整票を受け取った件でからかわれ続けているのに、今日はそれでも機嫌が悪くない。
「フィオナ、今日ちょっと元気じゃない?」
エレナが何気なく言うと、フィオナはびくっと肩を揺らした。
「え!? そ、そう!?」
「うわ、分かりやす」
ミリアがすぐに食いつく。
「違うよ!? ちが、なんでもない!」
「なんでもない人の反応じゃないんだよなあ」
そのやり取りを、セリナが小さく笑いながら見ている。
何気ない朝だった。
本当に、何気ないはずだった。
座学室はいつものように白く、窓は高い位置に小さく切り取られていた。外の空が見えないようでいて、少しだけ見える。その中途半端さがいかにも帝国らしいと、最近エレナは思うようになっていた。
今日の講義担当は作戦局所属の中年士官で、戦術理論と過去戦例の解説が中心だった。ヴァルギアたちに対しても名前は使わない。机上の駒へ話しかけるみたいな口調で、「第一中隊」「第二隊列」「個体番号」とだけ呼ぶ。
もう驚かない。慣れたくないと思っていても、いくつかのことには確実に慣れ始めている。
講義が終わったあと、短い休憩が挟まれた。
廊下へ出た時、エレナはふと、窓際に立っている知らない少女を見かけた。第一中隊の徽章ではない。濃い灰色に近い意匠の肩章。第二部隊か第三部隊か、あるいは第四部隊か。エレナにはまだすぐには見分けがつかない。
少女は窓の外を見ていた。
いや、見ているようでいて、何も見ていないようにも見えた。背筋は伸びている。姿勢は綺麗だ。けれどそこに、生きている人間特有の“視線の行き先”がない。
エレナは少しだけ足を止めた。
その瞬間、少女がこちらを向く。
目が合った。
ぞくり、とした。
瞳そのものに異常があるわけではない。ただ、反応が一拍遅い。こちらを視認してから、“人を見る顔”に切り替わるまでに微かな時間差がある。
「……何」
低い声だった。
「え、あ……ごめん」
エレナは咄嗟にそう答えた。だが少女はそれ以上何も言わず、再び窓の外へ顔を戻した。
そこへ、後ろからルナが小さく声をかけてきた。
「エレナ」
振り向くと、ルナはほんの少しだけ首を横に振った。
「見すぎない方がいい」
「……あの子、誰?」
ルナは一瞬迷ってから答える。
「第三部隊の……たしか、先輩」
言い方が曖昧だった。
「たしかって?」
「名前、忘れたんじゃなくて……」
ルナはそこで声を小さくした。
「前と違うから」
その言葉に、エレナは返事ができなかった。
前と違う。
それがどういう意味なのか、まだはっきりとは分からない。けれど第六章で見た別部隊の少女の空虚な目と、今の少女のわずかな遅れは、同じ種類の違和感に思えた。
休憩後、午後は装備整備と基礎点検に割り当てられた。
第一中隊の面々は整備区画の一角へ集まり、それぞれ補助具や留め具、抑制帯の状態を確認していく。整備兵たちの手つきは慣れているが、やはりどこかよそよそしい。必要以上には話さない。名前も呼ばない。作業指示と記録だけ。
それでも、何も感じていないわけではないのだろうと、最近は分かる。
フィオナの補助具を担当している若い整備兵は、相変わらず必要以上に言葉を少なくしていた。だが留め具の位置を調整する時だけ妙に慎重で、外した金具を渡す指先が少しだけ震えているように見えた。
「……次の訓練までに、ここの固定、もう一度確認してください」
ごく小さな声。
「え? あ、うん」
フィオナが受け取る。整備兵はすぐに顔を伏せて離れていった。
ミリアがその様子を横目で見ながら、にやりとする。
「今の絶対やさしかった」
「ち、違うってば!」
「違わないって」
ノエルがため息をつく。
「お前ら、整備兵が困るからやめろ」
「えー、ノエルは気にならないの?」
「気にならん」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「耳ちょっと赤いけど」
「気のせいだ」
そんなやり取りの少し離れたところで、カティアが別部隊の整備員と何か短く話していた。やがてこちらへ戻ってきた彼女の顔から笑みが消えている。
「どうしたの?」
セリナが気づいて訊く。
カティアは一瞬だけ迷い、それから小さく息を吐いた。
「……知ってる名前が、また一つ消えた」
その言葉に、周囲の空気がわずかに止まる。
「消えたって?」
ミリアが眉を寄せた。
「第四部隊の先輩。前に合同待機の時、一回話したことある子」
カティアは作業台の端へ腰を預ける。
「再調整に回されたって聞いてたんだけど、さっき整備班のやつに聞いたら“もう配置表から消えてる”って」
誰もすぐには返せなかった。
再調整。
第四章で聞いたその言葉は、もう第一中隊の中でも完全に無垢な意味ではなくなっていた。第六章で見た別部隊の少女。今日の廊下に立っていた第三部隊の先輩。戻ってこない名前。
「配置換えじゃないの?」
フィオナが不安そうに言う。
カティアは首を横に振った。
「そういう時は普通、行き先くらい残る」
「……残ってなかったの?」
「なかった」
短い沈黙。
イリナが工具を置き、静かに口を開く。
「再調整に送られた子の大半は、帰ってこない」
その声は平坦だった。
でもそれは、平気だからではなく、ずっと前から知っていた事実をようやく口にしたような重さだった。
「イリナ……」
セリナが名を呼ぶ。
「知ってたの?」
「確証はなかった」
イリナは言った。
「でも、第四部隊の名簿変動が異常に多い。再調整に入った記録は残るのに、復帰記録がほとんど見当たらない」
ミリアが顔をしかめる。
「ほとんどって、どれくらい」
「ごく少数」
「……戻ってくる子もいるってこと?」
エレナが訊くと、イリナはわずかに視線を落とした。
「いる」
「それなら――」
「でも」
今度はセリナが続けた。
「帰ってきても、戦場に長くいた人の顔をしてることが多いわ」
その言い方に、エレナは少しだけ息を呑む。
「戦場に長くいた人の顔……」
セリナは小さく頷いた。
「何かをなくしたみたいに静かだったり、前より笑わなくなっていたり、反応が少し遅かったり……そういう感じ」
第三章でのリゼットの短い沈黙を、エレナは思い出した。
味とか、ちゃんと分かりますか。
あの時は、ただの違和感だった。けれど今聞くと、その違和感が別の意味を持ち始める。
ノエルが低く言った。
「再調整って、結局なんなんだよ」
誰も答えない。
答えられないのか、答えたくないのか。その両方かもしれなかった。
そこへ、不意に別部隊の少女たちが整備区画へ入ってきた。肩章は第三部隊。先頭の少女はきびきびと歩いているが、その後ろの二人のうち一人に、エレナは見覚えがあった。
休憩時間に窓際に立っていた子だ。
少女はこちらへ視線を向ける。今度は遅れない。だがその代わり、反応が不自然なくらい均一だった。
「第――」
口が開きかけて、止まる。
少女はほんの一瞬だけ眉を寄せ、それから言い直した。
「……失礼」
そのまま通り過ぎていく。
何を言いかけたのか、エレナには分かった気がした。
番号だ。
あの少女は一瞬、エレナを名前ではなく番号で呼ぼうとした。
その事実が、言葉にされなかったのに背筋へ重く落ちてくる。
「今の」
ミリアがひそひそ声で言う。
「うん」
フィオナも青い顔で頷く。
カティアは舌打ちしそうな顔をしたが、ぐっとこらえた。ルナは明らかに目を伏せている。グレイスでさえ、珍しく何も言わなかった。
エレナは自分の手をぎゅっと握る。
名前で呼ぶこと。
第四章でリゼットが言ったこと。
帝国が番号で呼ぶなら、なおさら名前くらいは覚えてあげなさい。
その意味が、急に別の角度から重くなった。
もし人を番号で呼ぶようになったら、それはただの癖じゃない。戦場の中で何かを削られすぎた結果なのかもしれない。
「……ねえ」
フィオナが小さく言う。
「わたしたちも、ああなるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
あまりにもまっすぐで、あまりにも重たい問いだった。
最初に口を開いたのは、意外にもクラリスだった。
「ならないために訓練してるのよ」
声はいつも通り硬い。けれど、断言というより、自分にも言い聞かせているように聞こえた。
「ならない保証はない」
イリナが静かに言う。
「でも、知らないままでいるよりはまし」
「……そういう言い方、怖い」
ミリアが言う。
「怖いものは怖いままでいい」
今度はノエルだった。
「見ないふりしても、なくならない」
その言葉は、第二章の彼女らしかった。
セリナがそっとフィオナの肩へ手を置く。
「少なくとも、今ここにいる間は名前で呼ぶわ」
その一言が、ひどく静かに響いた。
カティアが短く笑う。笑ったというより、無理やり口元を上げたような感じだった。
「じゃあ決まりだね。誰かおかしくなりそうだったら、引っぱたいてでも名前で呼び戻す」
「乱暴すぎ」
ミリアが小さく言った。
「でも、わりと嫌いじゃない」
そう答えたのは、ルナだった。
夕方、整備区画を出る頃には、全員少しだけ疲れていた。訓練後とは違う、別の疲れだ。身体よりも心の方が重い。
帰り道、エレナは隣を歩くセリナへ小さく訊いた。
「セリナは、前から知ってたの?」
「うすうす、ね」
「誰にも言わなかった?」
「言える空気じゃなかったもの」
セリナはわずかに苦笑した。
「それに、わたしも確かめたかったのかもしれないわ。“考えすぎ”で済むなら、その方がよかったから」
その気持ちは、エレナにも少し分かる。
怖いことほど、本当だと確定させたくない。
でも一度見えてしまったら、もう見なかった頃には戻れない。
夜の休息室は、いつもより静かだった。
フィオナは珍しく大人しく、ミリアも軽口を叩く回数が少ない。カティアは椅子に深く座り込んだまま天井を見ていた。ルナはセリナの近くで本を開いているが、ページがあまり進んでいない。イリナは無言で記録をまとめ、クラリスはいつも通りの姿勢を保っていたが、どこか力が入っている。グレイスはその隣で目を閉じている。ヴェラは窓際で、外の暗さを眺めていた。
エレナはその部屋の空気を吸い込んで、吐いた。
今日知ったことは、まだ断片にすぎない。
でも断片だけでも十分だった。
帝国は、自分たちを兵器として使うだけじゃない。壊れかけたものを無理やり立たせて、また前線へ戻しているのかもしれない。
その気配が、もう身近なところまで来ている。
「エレナ」
不意にヴェラが呼んだ。
エレナは少し驚いて振り向く。ヴェラから名前を呼ばれることは、今までほとんどなかった。
「なに?」
問い返すと、ヴェラは少しだけ間を置いた。
「……いや」
そのまま視線を逸らす。
「何でもない」
それだけだった。
でも、エレナはなぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
名前で呼ばれた。それだけのことなのに、今はそれが妙に重い。
窓の外では、夜の基地の灯りが小さく瞬いていた。
遠くのどこかで、また誰かの名前が配置表から消えているのかもしれない。
そんな想像をしてしまった時、エレナは自分の爪が手のひらへ食い込むほど拳を握っていることに気づいた。
まだ自分たちはここにいる。
まだ名前を呼べる。
なら、呼び続けるしかないのかもしれなかった。
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