第六章 同じ空の、違う願い
その日の空は、妙に高かった。
雲が薄く、風も弱い。
戦場へ出る日にはたいてい空気のどこかが重くなるのに、その日は拍子抜けするほど静かだった。
まるで何事も起こらない平穏な一日みたいに見える。
だからこそ、エレナは少し落ち着かなかった。
訓練場へ向かう途中、ミリアが空を見上げて大きく伸びをする。
「こういう空の日ってさ、ちょっとだけ普通っぽいよね」
「普通って何だよ」
ノエルが横から言う。
「なんかこう……学校帰りに寄り道とかしたくなる感じ?」
「急に平和なこと言うな」
「いやでも、わかんない? 風が強い日はそういう気分にならないんだよね」
ミリアの言葉に、フィオナが勢いよく頷いた。
「わかる! あとこういう日は洗濯物がよく乾きそう!」
「発想が生活感に寄りすぎてる」
ノエルが呆れたように言う。
そのやり取りに、セリナが小さく笑った。
「でも、そういう感覚を忘れないのはいいことかもしれないわ」
「セリナはすぐそういう優しいこと言う」
「そうかしら」
「そうだよ」
エレナはその会話を聞きながら、少しだけ空を見上げる。
高い。青い。遠い。
第一章では檻の天井のように見えた空が、今日は少しだけ違って見える。
もちろん自由ではない。
けれど、ただ怖いだけでもなくなってきた。
リゼットが前を歩いている。
黒い外套が風に揺れるたび、エレナはその背中を目で追ってしまう。
第二章の「慣れないで」、第四章の「名前くらいは覚えてあげなさい」、第五章の「見失わないで」。
短い言葉ばかりなのに、不思議と胸に残る。
訓練場へ着くと、今日は第一中隊だけではなかった。
隣接区画には別部隊のヴァルギアたちも展開しており、そのさらに先では魔導飛行機の編隊訓練まで行われている。
基地全体がどこか慌ただしい。
「何かあるのかな」
エレナが小さく呟くと、イリナが即座に答えた。
「ある」
「即答だね……」
「こういう日は大抵、前線のどこかが不安定」
イリナは地図板を片手に淡々と言う。
「表向きは通常訓練でも、内側では再配置が進んでる。今日の整備班の動き、普段と違った」
そんなところまで見ているのか、とエレナは少し驚く。
「イリナってほんとよく見てるよね」
フィオナが感心したように言った。
「見てないと死ぬから」
「重い!」
「事実」
短い会話の端で、ルナが少しだけ苦笑する。
今日の訓練は、編隊連携をさらに詰める内容だった。
ただ飛んで撃つだけではない。
味方との距離、障壁の重ね方、退路の作り方、視界の共有、対空と対地の意識配分。リ
ゼットの指示はいつも通り簡潔だが、今日はとくに“見て動け”という意味合いが強かった。
「敵だけを見るな。味方だけも見るな。空全体を見なさい」
それが今日の中心だった。
エレナはまだ、それが苦手だった。
敵を見れば味方の位置を見失う。
味方を意識すれば地上が抜ける。
地上を意識すれば、自分の出力制御がぶれる。
「第三十――」
白衣の検査官ではない、訓練補助官の呼びかけに、エレナは反射的に肩を強張らせた。
だが、途中でその声は止まり、代わりにリゼットが静かに言う。
「エレナ」
たったそれだけで、エレナは胸の奥のざわつきが少し静まるのを感じた。
「はい」
「前へ出なさい。ミリアと模擬交戦」
「え、わたし?」
ミリアが目を丸くする。
「嫌?」
「嫌じゃないけど、なんでわたし?」
「お前はよく動くから」
ノエルが横から言った。
「エレナの視野の狭さを炙り出すにはちょうどいい」
「炙り出すって言い方ひどくない?」
「的確だろ」
ミリアはぶつぶつ言いながらも前へ出る。エレナもその向かいに立った。
開始の合図と同時に、ミリアは思った以上に速かった。
正面へ来ると見せかけて急に高度をずらし、視界の端を抜けて背後へ回る。
攻撃自体は重くない。
だが、意識を振り回される。
「わ、ちょっ……!」
「遅いよエレナ!」
ミリアの声が右から飛んだと思った瞬間、左の標的が撃ち抜かれる。
「そういう動きもあるの!?」
「あるよー!」
楽しそうに言っているが、エレナには余裕がなかった。
障壁を張る位置も、反応の向きも遅れる。
「前だけ見てる!」
今度はリゼットの声。
「分かってる!」
「分かってないから見失うの」
容赦がない。
ミリアが再び高度を変え、今度は下から入ってくる。
エレナは咄嗟に身を引いたが、その瞬間に上方の模擬標的が撃ち抜かれていた。
「二つ同時に見る!」
「む、無理……!」
「無理じゃない!」
声が重なる。
誰の声か分からなかったが、次の瞬間にはノエルだった。
「できないなら戦場で死ぬ!」
訓練場の空気が張る。
エレナは歯を食いしばった。悔しい。
できないことが悔しい。
怖いとか情けないとかより先に、悔しさが胸を焦がす。
もう一度、ミリアが揺さぶりに来る。
今度は視線をひとつに絞らない。
正面、右、下、上。全部を見ることはできなくても、全部を“捨てない”意識を作る。
ミリアの本体が視界の右へ抜ける。
その瞬間、エレナは左後方の標的へ先に撃った。
光弾は標的を正確に撃ち抜く。遅れてミリアが「えっ」と声を上げた。
「今の、見えてたの?」
「見えては……ない、けど」
「けど?」
「そこ狙うと思った」
息を切らしながら答えると、ミリアは一瞬だけ目を丸くし、それからにっと笑った。
「いいじゃん」
訓練終了の合図が鳴る。
地上へ降りると、ノエルが腕を組んだまま言った。
「今の最後は悪くない」
「ほんと!?」
「最初がひどすぎたから相対的にな」
「それ褒めてないよね?」
「少しは褒めてる」
横でカティアが笑い、フィオナは「すごいすごい!」と飛び跳ねそうになっている。
セリナは安堵したように胸へ手を当てていた。
ルナは小さく拍手し、イリナは「予測線がやっと広がった」とだけ言った。
ヴェラは何も言わなかったが、視線だけが一瞬エレナへ向いた。
リゼットは全体を見渡してから、短く告げる。
「休憩十分」
その間に、エレナは給水場の近くへ移動した。
金属製の容器から水を汲んで喉を潤す。冷たい。
肺の奥まで落ちていく感じが心地よかった。
「よかったじゃん」
隣に立ったのはミリアだった。
「最後、ちょっとびっくりした」
「わたしもびっくりした」
「自分で!?」
「だって、なんか、身体が先に動いた感じで……」
そう言うと、ミリアは少しだけ目を細めた。
「それ、いい方向かも」
「そうかな」
「うん。エレナってさ、考えすぎると固まるけど、ちゃんと見えてる時はすごいと思う」
ミリアの言葉はまっすぐだった。
からかっている感じはない。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その時、少し離れたところでフィオナが誰かに呼ばれているのが見えた。
振り向いた先には、帝国軍の若い整備兵が立っている。
何か手渡されて、フィオナがぱっと顔を明るくする。
「何あれ」
ミリアが気にしたように見る。
「手紙じゃない?」
「えっ、手紙?」
「たぶん」
フィオナは受け取った紙を大事そうに受け取り、整備兵の方を見る。
若い整備兵は、周囲を一度だけ気にするように視線を動かしてから、小さな声で何か言った。
エレナの位置からは聞き取れない。
けれど、その口調は命令や事務連絡というより、ひどく個人的な忠告みたいに見えた。
フィオナが「え? あ、うん」と少し戸惑ったように頷く。
整備兵はそれ以上何も言わず、すぐに一歩下がった。まるで長く話しているのを見られたくないみたいに。
「……今の、ちょっと変じゃなかった?」
ミリアが小声で言う。
「変って?」
「なんか、補助具の記録渡すだけにしては丁寧すぎるっていうか」
フィオナは受け取った紙を胸元へしまいながら、慌てたように首を振った。
「そ、そんなことないよ! たぶん調整記録だし!」
「たぶんって何」
「えっと、その、留め具のとこ……次の出撃までにもう一回見ておいてくださいって」
「へえ」
ミリアの目が一気ににやにやし始める。
「優しいじゃん」
「そ、そういうのじゃないって!」
「どういうの?」
「どういうのでもないもん!」
ノエルが横を通り過ぎざまに言う。
「うるさい。訓練場で恋愛ごっこ始めるな」
「ごっこじゃないもん!」
フィオナが反射的に言ってから、しまった、という顔をする。
「ほら!」
ミリアが食いつく。
だがその騒ぎは、リゼットの「整列」で一瞬で終わった。
その午後、訓練はさらに続いた。
連携、模擬迎撃、撤退補助、再編成。
ひとつひとつは地味なのに、終わる頃には全員の表情が少しずつ削れていく。
夕方、基地へ戻る頃には空が赤く染まり始めていた。
その赤の中で、エレナはふと別部隊の少女たちとすれ違う。
第一中隊とは違う徽章。見知らぬ顔。
けれど皆、やはり同じように露出の多い戦闘服を着て、無言で歩いていた。
そのうちの一人が、こちらをちらりと見た。
ほんの一瞬だった。でも、その目はひどく空虚に見えた。
疲れているだけかもしれない。そう思おうとしたのに、何かが引っかかった。
「……今の子」
エレナが立ち止まりかけると、セリナが隣で小さく言う。
「見ない方がいい時もあるわ」
「え?」
「ううん、何でもない」
セリナはすぐに微笑んだ。
けれどその笑みは、第三章の食堂にいた時より少しだけ薄かった。
夜、休息室ではフィオナがとうとう捕まっていた。
「で、誰からだったの?」
「言わない!」
「えー、なんで」
「言わないったら言わない!」
「絶対気になるやつじゃん」
ミリアとフィオナのやり取りを横目に、カティアが笑う。
ノエルは呆れ、クラリスは「私語が多い」と言いながらも止めきれていない。
グレイスは「本当に多いわね」と眉をひそめ、ルナは少しだけ楽しそうに見ていた。
イリナは聞いていないふりをしている。ヴェラは窓際で無言だ。
いつものようで、少しだけ違う。
エレナはその空気の中で、昼間に見た別部隊の少女の目を思い出していた。
空虚だった。
まるで、誰かを見ているのに、何も映していないみたいな。
「エレナ?」
セリナの声に顔を上げる。
「何か考えてた?」
「……ちょっと」
「そう」
セリナはそれ以上訊かなかった。
ただ、少しだけ隣へ寄って座る。
その距離が、今日はありがたかった。
名前で呼び合って、笑って、軽口を叩いて、好きなお菓子や静かな場所の話をして。
そういう時間が確かにあるのに、その外側では何かが少しずつ変質していく気配がある。
帝国の影は、白冠宮だけじゃないのかもしれない。
エレナは窓の外の赤い空を見上げた。
同じ空のはずなのに、その下で抱いている願いはきっと皆違う。
戦争を終わらせたい者。
生き延びたい者。
静かな場所へ行きたい者。
命令に従う者。
疑う者。
考えないようにしている者。
そして自分は――。
そこまで考えたところで、フィオナがとうとう観念したのか、小さく叫んだ。
「だから、整備班の人から“補助具の調整記録です”って渡されただけだってば!」
一拍置いて、休息室に沈黙が落ちる。
「……何それ」
ミリアが言う。
「いやほんと何それ」
カティアが続く。
ノエルが盛大にため息をつき、エレナは思わず笑ってしまった。
セリナも口元を押さえて笑う。
ルナまで肩を震わせていた。
フィオナは真っ赤な顔で抗議する。
「だ、だってみんなが勝手に変な方向に行くから!」
「お前の反応が悪いんだよ」
「ノエルまで!」
笑い声が広がる。
その中で、エレナはほんの少しだけ思った。
こうして笑えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない、と。
けれど同時に、その“まだ”がいつまで続くのかは分からなかった。




