第八章 静かな日々のほころび
それからしばらくのあいだ、大きな出撃はなかった。
まるで戦争そのものが、ほんの少しだけ息を潜めたみたいだった。
もちろん、完全に止まったわけではない。遠方戦線では小競り合いが続いているし、帝都上空の警戒態勢も解かれていない。第一中隊にも短時間の哨戒任務や迎撃待機は入っていた。だが、第二章や第五章のような激しい実戦が続かなかったぶん、基地の空気にはかすかな緩みがあった。
その緩みは、心を休ませる一方で、別のものを見えやすくもした。
例えば、沈黙。
例えば、視線。
例えば、何気ない会話の途中でふっと生まれる小さな間。
そういうものが、最近のエレナには妙に引っかかった。
朝の食堂で、ミリアが珍しく静かだった。
「珍しいね」
エレナが声をかけると、ミリアはスープをかき混ぜる手を止めずに答える。
「なにが?」
「今日はあんまり喋らない」
「そんな日もあるよ」
口調はいつも通りだった。軽い。けれど、どこか上滑りしている。
フィオナがすぐに横から入ってくる。
「ミリア、昨日あんまり寝てないんじゃない?」
「寝たよー」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
そう言って笑う。だが、その笑いが一瞬だけ遅れる。
ほんの僅かな違和感だった。
エレナがそれを意識した時、ノエルが向かいから低く言った。
「見すぎるな」
「え?」
「何でもかんでも異常に見える時は、自分の方が疲れてる」
ぶっきらぼうな言い方だったが、気遣っているのは分かった。
エレナは少しだけ肩の力を抜く。
「……そうかも」
「そういうことにしとけ」
それだけ言って、ノエルはパンをかじる。
だが、エレナの中に残った違和感は消えなかった。
最近、第一中隊の中にも小さな揺れが増えている気がする。
誰かが明らかに壊れているわけではない。ミリアも、フィオナも、カティアも、皆ちゃんと笑う。セリナは相変わらず穏やかだし、クラリスは規律を口にし、ノエルはぶっきらぼうで、ルナは静かだ。イリナは冷静で、グレイスは硬く、ヴェラは無口だ。
いつも通りだ。
でも、その“いつも通り”が時々少しだけ無理をしているように見える。
その日の午前訓練は、珍しく体力調整中心だった。
出力を抑えた飛行、持久姿勢、低負荷の障壁維持。派手さのない内容だが、リゼットは今日はいつもより細かく全員を見ていた。
「高度を上げすぎない」
「呼吸を合わせる」
「魔力を押し込むな。流しなさい」
「力任せに維持しない」
短い指示が続く。
エレナはその中で、一度だけヴェラを見た。
ヴェラは今日も静かだった。だが、第七章の時とは違い、そこに“落ち着き”とは別のものが混じっている気がした。動き自体は正確だ。むしろ正確すぎるくらい。無駄がなく、乱れもない。なのにどこか、息をしていないみたいな冷たさがある。
訓練終了後、地上へ降りた時も、ヴェラは誰とも目を合わせなかった。
「ヴェラ、補助帯ずれてる」
カティアが気づいて言う。
ヴェラは少し遅れて視線を下ろし、何も言わずに直した。
「……大丈夫?」
今度はセリナが訊く。
ヴェラは一拍置いてから、短く答えた。
「平気」
たったそれだけだった。
平気。言葉としては何の問題もない。けれどその“平気”には、感情の温度がほとんどなかった。
エレナは思わずその横顔を見つめた。
するとヴェラがふっとこちらを見る。
目が合う。
数秒だけ。
「何」
低い声だった。
「え……いや」
エレナは咄嗟に視線を逸らした。
ただ見ていただけなのに、見てはいけないものを見たような気分になる。
その空気を、カティアがあえて大きな声で壊した。
「はいはい、訓練終わり! 今日はちょっと休憩長いんだっけ?」
「そのはず」
イリナが記録板を見ながら答える。
「午後は装備確認と待機。出撃即応状態維持だけど、現時点で緊急命令は入ってない」
「つまりちょっとはゆっくりできる!」
フィオナが明るい声を上げる。
「まだ分かんないよ。帝国だから」
ミリアが言うと、今度は少しだけ自然に笑えた。
休憩室へ入ると、今日は珍しく窓際の席が空いていた。
フィオナが真っ先にそこを確保しようとして、グレイスに「走らない」と一言で止められる。ミリアが笑い、ルナが小さく肩を震わせる。いつもの光景だ。
エレナは長椅子へ腰を下ろし、壁へ背を預けた。
こうして座っていると、本当に戦争中なのか分からなくなる時がある。話して、笑って、少し眠くなって、外の光を眺めて。普通の少女たちの休み時間にしか見えない。
けれど実際には、皆が兵器で、帝国の基地の中にいて、いつでも空へ上げられる立場にある。
その二重の現実に、まだ慣れない。
「エレナ」
セリナが横へ座る。
「今日、少し疲れてる?」
「わかる?」
「なんとなく」
セリナは穏やかに微笑む。
「最近、いろんなことが見えすぎてる顔をしてるから」
図星だった。
エレナは苦笑して、少しだけ肩をすくめる。
「前は何も分からなかったのに、今は逆に気になることばっかり増えてる」
「そういう時期なのかもね」
「セリナにもあった?」
「あったわ」
迷いなく答えが返ってくる。
「何を見ても、全部繋がってるように見えて、どこから考えればいいか分からなくなる時期」
「どうしたの?」
「寝た」
あまりにも簡潔で、エレナは思わず笑ってしまう。
「それで解決するの?」
「半分くらいは」
「すごいな……」
「でも、残り半分は解決しないわね」
セリナの声が少しだけ落ちる。
「そういう時は、ひとりで抱え込まないことにしたの」
その言葉は、ただの助言ではなく、自分自身へ言い聞かせてきたことのように聞こえた。
「わたし、抱え込んでるかな」
「少し」
「少しか」
「だいぶ、よりはいいわ」
優しい言い回しだった。
その時、部屋の反対側で小さな物音がした。
ヴェラだった。
床に落ちたのは、飲みかけの水筒。中身はほとんどこぼれていない。手が滑っただけだろう。普通なら、それで終わるはずだった。
けれどヴェラは、すぐに拾わなかった。
床へ落ちた水筒を見下ろしたまま、微動だにしない。
「ヴェラ?」
ルナが小さく呼ぶ。
返事がない。
カティアが椅子から腰を上げかけたところで、ヴェラはゆっくりと身を屈め、水筒を拾った。そして何事もなかったかのように元の位置へ座る。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、部屋の空気がほんの少しだけ固まった。
「……どうしたの?」
フィオナが恐る恐る訊く。
ヴェラは水筒の口を閉め直しながら、短く答えた。
「別に」
声は平坦だった。
それ以上、誰も踏み込まなかった。
踏み込めなかった、の方が近いかもしれない。
エレナは自分の膝の上で指を組み直す。
今のは本当にただの疲れかもしれない。ぼんやりしていただけかもしれない。けれど第七章で見た“前と違う先輩”のことを思い出してしまうと、些細な間ですら意味を持ち始めてしまう。
こういう時に限って、リゼットは部屋にいない。
隊長がいれば、たぶん何か違ったのだろうか。そう考えてすぐ、自分がいつの間にかリゼットの存在に頼っていることに気づいた。
午後の待機時間、第一中隊は装備保管庫近くで命令待ちとなった。
隊列は崩していいが、すぐ動ける位置にいること。半端に自由で、半端に不自由な時間。
ミリアは壁際に座って靴先をぶらぶらさせている。フィオナはまた整備記録票を見て、何かぶつぶつ言っている。ノエルは完全に目を閉じて休んでいた。カティアは腕を組んで天井を見上げ、ルナは小さな本を読んでいる。イリナは記録板を膝に載せたまま考え込み、クラリスは姿勢を崩さず座っていた。グレイスはその少し後ろ。セリナはエレナの近くにいて、ヴェラはやはり少し離れた位置だった。
「ねえ」
不意にミリアが小さく言った。
「こういう時ってさ、逆に落ち着かなくない?」
「わかる」
フィオナが即答する。
「何も起きないと、何か起きそうでやだ」
「それそれ」
その言い方は軽かったけれど、わりと全員同じことを思っていたのかもしれない。セリナも否定しなかったし、カティアも苦笑しただけだった。
するとイリナが記録板から目を上げずに言う。
「何か起きそうな日は、大抵本当に起きる」
「イリナそういうこと言わないで!」
フィオナが半泣きみたいな声を出す。
ほんの少し笑いが起きた。
でも、その笑いも長くは続かなかった。
次の瞬間、基地全体を貫くような警報が鳴り響いたからだ。
高く、鋭く、空気そのものを切り裂く音。
全員が反射的に立ち上がる。
『第一中隊、第二中隊、直ちに出撃準備。第一中隊、第二中隊、直ちに出撃準備』
冷たい館内放送が続く。
第二中隊。
その単語に、エレナは一瞬だけ引っかかった。
今まで第一中隊単独の命令はあっても、他部隊と同時投入は少なかった。つまりそれだけ規模が大きいということだ。
リゼットがちょうど通路の奥から現れる。
「全員、第三発着区画へ」
声に迷いはない。
「質問は後」
それだけで、部屋の空気が切り替わる。
フィオナの顔から色が消え、ミリアはさっきまでの緩さを一瞬で捨てる。カティアは肩を鳴らし、ノエルは目を開けた。ルナは本を閉じ、イリナは記録板を脇へ挟む。クラリスとグレイスは最初からそのつもりだったみたいに動き出し、セリナは深くひとつ息を吸った。
そしてヴェラだけが、一拍遅れた。
本当に、一拍だけ。
「ヴェラ」
リゼットの声が飛ぶ。
ヴェラはすぐに顔を上げた。
「……了解」
それで十分だった。
十分だったはずなのに、エレナはまた胸の奥に小さな冷たさが残るのを感じた。
静かな日々は、終わる時だけはいつも急だった。




