第四章 番号ではなく名前で
検査の日は、いつも空気が少し違った。
朝の点呼が終わったあと、第一中隊の面々はそのまま訓練場へは向かわず、医療棟のさらに奥――中央検査区画へ移動するよう命じられた。廊下を歩く足音が、普段よりも妙に静かに響く。
誰も騒がない。
ミリアでさえ、今日は口数が少なかった。フィオナも珍しく黙っていて、落ち着きなく視線を左右へ泳がせている。ノエルは無言で前を向き、クラリスはいつも通りの硬い表情を崩さない。セリナだけが、わずかに笑みの形を作っていたけれど、それは空気を和らげるためのものだとエレナにも分かった。
「そんなに嫌なものなの?」
小さく訊くと、隣を歩いていたルナが一瞬だけこちらを見た。
「……好きな子は、いないと思う」
その答えはとても静かだった。
「なんで?」
今度はフィオナが、言うか迷った末に口を開いた。
「だって、あそこ……すっごくやなんだもん」
「フィオナ」
セリナがやわらかくたしなめる。
「でも、ほんとだよ。なんか、あそこ行くと……」
フィオナはそこで言葉を切った。続きを言いたくないのか、言葉にできないのかは分からなかった。
前方を歩いていたリゼットが、短く告げる。
「私語はいいけど、着いたら無駄口は叩かないで」
振り返りもしない声だった。
「検査官は、話をする相手じゃない」
その一言で、廊下の温度が少し下がった気がした。
中央検査区画は、医療棟の中でもさらに白かった。
壁も床も天井も、第一章で目を覚ました部屋よりさらに無機質で、磨き上げられた無表情さだけがある。消毒薬の匂いは強く、どこか金属の冷たい匂いも混じっていた。扉の前にはすでに白衣の人間たちが数人待っていて、誰が来たのかを確認するより先に、手元の記録板へ目を落としている。
「第一中隊、定期適応検査」
リゼットが告げる。
白衣の一人が頷いた。
「確認。個体番号順に呼び出す。装備解除後、順次検査室へ」
その声には、歓迎も嫌悪もなかった。ただ、作業手順を読み上げるだけの平坦さがある。
装備解除。
その言葉に、エレナはわずかに喉が詰まるのを感じた。
すぐに別室へ通された。そこは更衣室と呼ぶにはあまりにも殺風景で、長椅子と金属棚、それから番号付きの籠が並んでいるだけだった。仕切りはない。鏡もない。
「はいはい、出ました最悪の時間」
ミリアが死んだ目で言う。
「毎回思うけど、せめて仕切りくらい作ってほしいんだけど」
「作る気があるなら最初からここまで露骨じゃないでしょ」
ノエルが吐き捨てるように言った。
その言葉に、エレナは何となく手が止まる。
セリナが戦闘服の留め具へ指を掛けながら、静かに言った。
「早く済ませた方が楽よ」
慰めるような声だったが、その奥には諦めに近い響きがあった。
クラリスは一切のためらいなく外套を外し、補助具を外し、戦闘服へ手を掛けている。規律の一部として処理しているのだろう。けれどその動きが硬いことに、エレナは気づいた。
ルナは視線を伏せ、なるべく自分を小さく見せるように動いていた。フィオナは露骨に嫌そうな顔をしている。カティアは「ほんっと趣味悪いよねえ」と苦笑しながらも、手は止めない。イリナは黙って籠へ装備を整理している。ヴェラはほとんど表情を変えずに動いていたが、それでも指先だけがほんの少し強く布を掴んでいた。グレイスは姿勢を崩さないまま着替えているが、その横顔には緊張が見えた。
全員が嫌なのだ。
それでも、慣れた手つきで進めているだけだった。
エレナもゆっくりと外套を脱ぎ、補助具を外し、戦闘服へ指を掛けた。布が落ちるたび、肌に当たる空気がひどく冷たく感じる。
ここでは、恥ずかしいという感覚すら上手く育たない。
誰もこちらを見ていないからではない。逆だった。
見られても、その“こちら”に人格が含まれていないのが分かるからだ。
やがて全員が何も身に着けていない状態になって、白衣の検査官が扉の向こうから番号を読み上げ始めた。
「第十二号」
最初に呼ばれたのはリゼットだった。
彼女は一瞬も止まらず前へ出る。背筋は真っ直ぐで、歩幅も一定だった。だが扉の前を通り過ぎる瞬間、その横顔がほんの少しだけ冷えたのをエレナは見た。
次々と名前ではなく番号が呼ばれていく。
「第十四号」
グレイス。
「第十六号」
ヴェラ。
「第十八号」
ノエル。
「第二十一号」
クラリス。
そのたび、少女たちは無言で前へ出る。呼ばれるのは名前ではない。所属でもない。ただの番号。
個体番号。
識別番号。
それだけだ。
エレナの番が来るまでの時間は、妙に長かった。
冷たい床。白い壁。金属の匂い。どこかで誰かが記録をめくる音。遠くから聞こえる機械音。自分たちはここで、どう見られているのだろう。いや、そもそも“見られて”いるのか。もしかしたら、肉体の数値と反応しか見られていないのかもしれない。
「第三十七号」
呼ばれて、エレナはびくりと肩を揺らした。
前へ出る。
検査室の中はさらに冷たかった。中央に立位固定用の薄い台座があり、その周囲を円形の魔法陣と計測器具が取り囲んでいる。壁には淡い光の線が走り、床には検査用の幾何学模様が刻まれていた。
「台へ」
指示は短い。
従うしかない。台へ立つと、足元から微細な光が立ち上がり、皮膚表面をなぞるように走る。ぞわり、と鳥肌が立った。
「視線は前方固定」
「呼吸を一定に」
「魔力反応測定開始」
声が次々に飛ぶ。
検査官たちは誰ひとり、エレナの顔をまともに見なかった。視線は肌へ、瞳孔へ、脈動へ、魔力反応値へ向けられている。そこに“ひとりの少女”を見るまなざしはない。
「反応良好」
「循環効率、基準以上」
「出力増加傾向あり」
「情動値測定へ移行」
情動値。
その言葉に、エレナは一瞬だけ眉を寄せた。
けれど質問する前に、別の装置が起動する。淡い光が胸元から腹部、四肢、首筋、額まで這うように流れた。羞恥より先に、ぞっとするような不快感が来る。
これは健康診断じゃない。
自分が“正常に人として生きているか”を確かめる検査じゃない。
兵器としてどれだけ使えるか、そのための損耗がどこまで進んでいるか、それを測っているだけだ。
「第三十七号、感情反応に軽度過敏」
検査官のひとりが淡々と言う。
「初陣直後につき誤差範囲内」
「経過観察」
エレナは思わず口を開きそうになった。
感情反応。
初陣。
それは本来、自分の中で消化すべきものではないのか。どうしてこんなふうに数値として処理されているのか。
けれど何も言えなかった。
言っても意味がないと、この白い部屋そのものが告げていたからだ。
検査が終わると、台から降りるよう指示された。外へ出ると、まだ更衣室へ戻る前の通路にセリナが立っていた。彼女もすでに終えていたらしく、壁にもたれて息を整えている。
「……大丈夫?」
小声で訊かれる。
エレナはすぐには頷けなかった。
「なんか」
喉が乾く。
「自分が、自分じゃないみたいだった」
セリナは少しだけ目を伏せた。
「そうね」
それだけだった。
否定もしない。慰めもしない。ただ、同じ感覚を知っている人の声だった。
更衣室へ戻ると、まだ何人かが先に着替えを始めていた。布地が肌へ戻るだけで、少しだけ人間に近づける気がするのが嫌だった。
服を着てしまえば、自分はまた“少女”に見える。だが数分前まで、帝国にとってはただの検査対象だった。
ミリアが留め具を乱暴に留めながら、顔をしかめる。
「ほんとやだ、あそこ。何回やってもやだ」
「やだやだ言いながら毎回最後まで喋ってるの、お前くらいだぞ」
ノエルが言う。
「だって黙ってたら余計やじゃん……」
その言葉に、フィオナが小さく頷いた。
「わかる」
「分かるけど、お前ら二人はちょっと分かりやすすぎる」
カティアが苦笑する。
ルナは黙ったまま布を整えていたが、指先がまだわずかに震えている。イリナは何事もなかったみたいに籠の中を整理しているが、その動作がいつも以上に几帳面だった。ヴェラは静かに補助具を留め直している。グレイスは無言で外套を羽織った。クラリスは誰より早く着替え終えていたが、背筋を伸ばしたまま、何かに耐えるように目を閉じていた。
「全員、着替え終わったら前へ」
リゼットの声で、空気が少しだけ引き締まる。
彼女はもう完全に装備を整えていて、いつもの冷静な隊長の顔に戻っていた。けれど、その目の奥にわずかな疲れが残っているようにエレナには見えた。
全員が並ぶと、白衣の検査官が記録板を見ながら言った。
「第一中隊、定期適応検査終了。以後、異常兆候が認められた個体には再調整命令が下る場合がある」
再調整。
その言葉が出た瞬間、何人かの空気がほんの少しだけ変わった。
ミリアは意味を知らないのか、ただ首を傾げている。フィオナも同じだ。けれどノエルは舌打ち寸前みたいに眉を寄せ、セリナは微かに目を伏せた。クラリスもわずかに唇を引き結ぶ。カティアは笑っていない。ルナは視線を落としたまま固まっている。ヴェラも、イリナも、何も言わない。
再調整とは何なのか。
エレナは、まだ知らなかった。
だが、その言葉が誰にとっても明るい意味ではないことだけは、沈黙で分かった。
その後の帰り道、リゼットは珍しく少しだけ歩調を緩めていた。エレナは迷った末、横へ並ぶ。
「少尉」
「何」
「……皆、ああいうの平気そうに見えてたけど、やっぱり嫌なんですね」
リゼットは少しだけ前を見たまま、間を置いてから答えた。
「平気な子なんていないわ」
「でも、誰も逆らわない」
「逆らってどうなるの」
その声は静かだった。
静かすぎて、かえって答えになっていた。
エレナは言葉を失う。
「ここではね」
リゼットは続けた。
「嫌かどうかは重要じゃないの。命令に従うかどうかだけが見られてる」
そこまで言って、彼女はふっと息を吐いた。
「だから、せめて名前くらいは覚えてあげなさい」
思いがけない言葉だった。
「番号じゃなくて?」
「そう」
リゼットは短く頷く。
「帝国が番号で呼ぶなら、なおさら」
その一言が、エレナの胸の奥へ落ちる。
第一章で、自分は番号で呼ばれた。研究員に、個体として。第三十七号と。
でもここへ来てから、ミリアも、セリナも、フィオナも、カティアも、ルナも、イリナも、ヴェラも、グレイスも、クラリスも、ノエルも、リゼットも、皆ちゃんと名前を持っていた。
それを覚えることは、ただの記憶ではないのかもしれない。
兵器として扱われるこの場所で、人として繋ぎ止めるための、たったひとつの手段なのかもしれなかった。
その日の夕方、休息室には昨日より少しだけ重い空気があった。
それでもミリアはフィオナと何か言い合って笑っていて、カティアはその横から茶々を入れ、ルナは小さく笑い、セリナは静かに見守っていた。クラリスは本を読んでいて、グレイスはその近くで黙って座っている。イリナは何かの記録を整え、ヴェラは窓の外を見ている。ノエルは壁際で腕を組み、目だけは部屋全体へ向けていた。
いつも通りに見える。
でも、エレナには少しだけ分かった。
この部屋の皆は、いつも通りを“作っている”のだ。
白い検査室の中で削られた何かを、ここで少しだけ取り戻すために。
「エレナ」
不意にフィオナが呼ぶ。
「何?」
「ちゃんと名前で呼んでね」
あまりにも唐突だった。
「え?」
「だってさっき、ちょっと考えてたでしょ。誰が誰だっけって顔してた」
「してたかな……」
「してた」
フィオナは断言する。
「だから、ちゃんと覚えて。わたしはフィオナ。あっちはミリアで、こっちはルナで、あっちは――」
「待って待って、自分で言うの?」
「言うよ!」
ミリアが笑い出す。
「じゃあわたしも言お。ミリアです。怖がりだけど頑張ります」
「なんだそれ」
ノエルが呆れたように言う。
「じゃあノエルも」
「言わねえ」
「えー」
「エレナ」
セリナが優しく言った。
「ちゃんと覚えてくれたら、それでいいのよ」
その言葉に、エレナは頷いた。
「……うん。覚える」
それは思っていたより、重たい約束みたいに感じられた。
名前を覚えること。
名前で呼ぶこと。
それだけで、ここでは少しだけ、兵器でなくなれる気がした。
夜、寝台へ戻ったあと、エレナは暗い天井を見上げながら、部隊の名前をひとつずつ心の中でなぞっていった。
リゼット。ノエル。クラリス。セリナ。ミリア。フィオナ。カティア。ルナ。イリナ。ヴェラ。グレイス。
番号ではなく。
名前で。
胸の奥を流れる見えない力は、今日もまだ不気味なままだった。けれどその中で、名前だけが妙に確かな輪郭を持って残っている。
この帝国が、彼女たちを番号で呼ぶのなら。
自分は、せめて名前で呼ぼう。
そんなささやかな反抗が、エレナの中に静かに生まれていた。
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