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魔導戦記 蒼穹のヴァルギア -Valgia of the Azure-  作者: たーびゅらんす
第一部 帝国編

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第三章 休息室の少女たち

 初陣の翌日、エレナは昼近くまで起き上がれなかった。


 正確には、目は覚めていた。何度も。けれど身体が鉛みたいに重く、布団から半身を起こすだけで、胸の奥の魔力脈動が鈍い痛みを伴って波打った。


熱があるわけではない。傷を負ったわけでもない。ただ、体の中を流れる見えない力そのものが、使い過ぎたことで軋んでいるようだった。


「起きてる?」


 控えめな声と一緒に、扉が少しだけ開いた。


 セリナだった。片手に盆を持っている。中にはスープと水、それから味の薄そうなパンが載っていた。


「医務班の人に、今日は無理に訓練へ出さなくていいって言われたの。だから、これ」


「……ありがとう」


 声を出すと、思った以上に喉が掠れた。


 セリナは小さく笑って、盆を寝台脇の机へ置く。


「昨日、だいぶ無理してたもの。初陣のあとに倒れ込む子は珍しくないわ」


「セリナも……そうだったの?」


「ううん」


 彼女は少しだけ考えてから、肩をすくめた。


「わたしは吐く前に泣いたかしら」


 予想外の答えに、エレナはわずかに目を見開いた。


「……泣いたんだ」


「泣いたわよ。すごく」


 セリナは穏やかな顔のまま答えた。


「でも、誰にも見られないところでね。今思えば、その程度の見栄は張らなくてもよかったんだけど」


 その物言いに、エレナは少しだけ肩の力を抜いた。


 セリナはもともと穏やかで、落ち着いていて、どこか“出来ている”人のように見える。

そんな彼女にも、最初があったのだと分かるだけで、昨日の自分の醜態が少しだけ許される気がした。


「皆、先に食堂へ行ってるわ。落ち着いたら来る?」


「……うん」


「無理しないでね」


 扉が閉まる。


 しばらくして、エレナはゆっくり起き上がった。足を床へ下ろし、深呼吸する。

昨日よりはましだ。けれど、手のひらを握り込むと、まだ微かな痺れのようなものが残っている。


 スープを口に運ぶ。味は薄い。でも温かかった。


 それだけで、少し救われた。


 食堂へ向かう廊下は、初めてここへ来た時より少しだけ短く感じた。

場所の構造を覚えたからかもしれないし、第一章の頃のような“完全な異物感”が薄れてきたからかもしれない。


 食堂の扉を開けた瞬間、思っていた以上に騒がしい声が耳へ飛び込んできた。


「だからそれ絶対見えてたって!」


「見えてないわよ、訓練空域の高度で誰がそんな細かいとこ見るの」


「見るよ! だってあれ、急上昇した時にこう、ばってなって……」


「ミリア、食事中にする話じゃない」


 クラリスの冷えた声が、場の熱を少しだけ切る。


 エレナが足を止めると、最初に気づいたのはフィオナだった。


「あっ、エレナ!」


 ぱっと顔を明るくして手を振る。昨日までの重苦しさが嘘みたいな勢いだった。


「こっちこっち! 席あいてるよ!」


「騒ぐな、フィオナ。まだ食堂だぞ」


 ノエルが言う。けれど、その声にも第一章の頃よりわずかな柔らかさが混じっていた。


 エレナが近づくと、ミリアが身を乗り出してきた。


「ねぇエレナ聞いて! 昨日の飛行訓練のあと、フィオナが“急旋回すると外套の中まで風入ってくるの最悪”ってすごい真顔で言ってて」


「言ってない! そこまで変な言い方してない!」


「してたよー」


「してないもん!」


「でも分かる」


 ぽつりとルナが言った。


 全員の視線がそちらへ向く。ルナは少しだけ肩をすくめた。


「……風、入ると、落ち着かないから」


 その言い方があまりにも真面目だったせいか、一瞬だけ静まり返ったあと、ミリアが盛大に吹き出した。


「ほらー! ルナも言ってる!」


「いや、ルナはお前ほど騒いでないだろ」


 ノエルが呆れたように言う。


「だってほんとに落ち着かないんだもん。飛んでる時ってただでさえ怖いのに、あの感じあると余計やだし」


「……怖いの」


 エレナが思わず訊き返すと、ミリアは「え?」と目を丸くしたあと、すぐに苦笑した。


「そりゃ怖いよ? わたし、戦闘のたびに毎回ちょっと怖い」


「お前、全然そう見えねえけど」


「見せない努力をしてるのですー」


 ミリアは胸を張る。だが次の瞬間には、少しだけ声を落とした。


「怖がってるの、皆にバレると余計怖くなるし」


 それはたぶん、冗談ではないのだろう。


 エレナは少しだけ頷いた。

昨日、自分が空で感じた恐怖を思い出す。

誰もが平然として見えても、本当はそれぞれ別の形で抱えているのかもしれない。


 セリナが自分の隣を軽く叩いた。


「座る? まだ少し顔色が悪いわ」


「……うん」


 そこへ腰を下ろすと、正面にはクラリスがいた。彼女は食事の手を止め、短くこちらを見る。


「少しは休めた?」


「たぶん」


「たぶん、では困るわ」


 相変わらず言い方は硬い。だが、気遣っているのは分かった。


「今日の午後の訓練は免除だと聞いたけれど、基礎復習くらいは自分でしておくべきよ。

初陣で生き残ったからといって、戦い方を理解したことにはならないもの」


「クラリス、それ見舞いの言葉としてはだいぶ厳しい」


 カティアが笑いながら口を挟んだ。大きめの器を片手で持ち、向かいの席へどっかり座る。


「でも間違ってないでしょ」


「まあね。あんたはそういうとこぶれないなあ」


 カティアは豪快にスープを飲み干してから、エレナの方へ向き直った。


「初陣で吐くのは普通。落ち込むのも普通。でも、昨日ちゃんと二機目から立て直してたのは見てたよ。あれは悪くなかった」


「……ありがとうございます」


「よし、素直でよろしい」


 カティアはにっと笑う。こういう明るさは、ノエルともミリアとも違う種類のものだった。

年上らしい余裕のある豪快さ。第一中隊の中で、空気を少し軽くしてくれる人なのだと分かる。


「ほんとカティアって、こういう時だけやたら頼れるよね」


 ミリアが言う。


「“こういう時だけ”は余計じゃない?」


「普段も頼れるよー。たまに雑なだけで」


「おい」


 カティアが笑いながらミリアの額を軽く小突く。そのやり取りを見て、ルナが小さく笑った。


 その少し後ろで、イリナが静かに紅茶のような色の飲み物を口にしていた。

彼女は騒ぎには加わらないが、聞いていないわけでもないらしい。


「昨日の二機目、立て直せたのはセリナの障壁支援が一拍早かったから。あとノエルの射線調整」


 淡々とした分析が飛んできて、ノエルが顔をしかめた。


「今それ言うか」


「事実だから」


「そういうとこだぞ」


「何が?」


 イリナは本気で分かっていない顔をする。ミリアがまた笑った。


「イリナってさ、ほんと空気読まないよね」


「読む必要がある場面なら読む」


「今は?」


「今はエレナが戦いを個人の失敗として抱え込みそうだから、訂正した方がいい場面」


 あまりにも真顔で言うので、今度はエレナの方が少し笑ってしまった。


 その様子を見ていたセリナが、どこかほっとしたように息をつく。


 その時、フィオナが勢いよく立ち上がろうとして、机の端に置いてあったコップへ肘をぶつけた。


「あっ」


 透明な液体が揺れ、倒れかける。


 けれど床へ落ちる前に、横から伸びた手がそれを押さえた。


 イリナだった。


 まるで最初からそうなると分かっていたみたいな、無駄のない動きだった。


「座ったまま動けばいいのに」


「……ごめん」


 フィオナがしゅんとする。


 そこへ、ルナがすっと布巾を差し出した。


「これ、使って」


「ありがと、ルナ」


「次は気をつけて」


 短く言ったのはヴェラだった。


 少し離れた席で食事を取っていた彼女が、視線だけをこちらへ向けている。

声は低く、抑揚は少ない。

けれど冷たいというより、必要なことだけを短く言う人の声音だった。


「う、うん……」


 フィオナがこくりと頷く。


 ヴェラはそれ以上何も言わず、再び食事へ視線を戻した。

その横顔は静かで整っていて、感情の起伏が薄い印象はある。


けれど、完全な無関心とは少し違う。

少なくとも今の一言は、ただの注意ではなく、本当に次は気をつけろという意味に聞こえた。


「ヴェラって、たまにちゃんと喋るよね」


 ミリアが小声で囁く。


「たまにって何」


 珍しく、ヴェラ本人が返した。


 その一言だけで、食堂の空気が少しだけ和む。


「待機中の私語は慎むべきよ。特に服装についての不満を廊下まで響かせるのは感心しないわ」


 クラリスが改めて言う。

声は硬いが、怒鳴るでも責め立てるでもない。規律として言っているのが分かる。


「また始まった、クラリスの規律講座」


 ミリアが頬をふくらませる。


「規律は必要よ」


「その通りです。休息時間であっても、部隊行動中の節度は保つべきでしょう」


 低く張った声が続いた。


 クラリスの少し斜め後ろに座っていた少女が、食器を置いてこちらを見る。

整った姿勢、無駄のない所作、真っ直ぐすぎるほど真面目な視線。

クラリスと似た規律の匂いがあるが、あちらよりさらに融通が利かなさそうな硬さがあった。


「うわ、クラリスが増えた」


 ミリアが小声で呟く。


「増えてない。私はグレイスよ」


 少女は眉ひとつ動かさず言った。


「グレイス・ハルトマン。騒がしいのは嫌いではないけれど、度を越すのは感心しないわ」


「聞こえているわよ」


「怖」


「ミリア」


「ごめんなさい」


 即座に頭を下げるミリアに、今度はカティアが声を立てて笑った。


 食堂のざわめきは絶えない。

器の触れ合う音、椅子の軋み、少女たちの声。

基地の中でも、この場所だけはほんの少しだけ戦争から遠かった。


 フィオナがふとこちらへ身を乗り出す。


「ねぇエレナ、昨日の最後のあれ、すごかったよ」


「最後の?」


「二回目の砲撃。最初よりずっときれいに収束してたやつ。わたし、あれ見てた」


 無邪気な目だった。


「え、そんなとこ見てたの」


「見てた見てた。わたし、後ろだったし」


「勝手に前へ出ようとしてただけだろ」


 ノエルが即座に切り返す。


「うっ……それはちょっとだけ」


「ちょっとじゃない」


「でもほんとにすごかったんだよ!」


 フィオナは諦めずに言い募る。


「最初はちょっと危なかったけど、次のはちゃんと真っ直ぐで、ばって行って、どーんって!」


「説明が雑すぎる」


 セリナが苦笑する。


 けれどエレナは、ほんの少しだけ救われた気がした。

自分が空でやったことは、人を殺したことでもある。そこから目を逸らすつもりはない。

けれど、それだけではなかったのだと、仲間の言葉が教えてくれる。


 その時、不意にミリアが頬杖をついたまま、ぽつりと言った。


「そういえばさ」


「なに?」


 フィオナが即座に返す。


「前からちょっと気になってたんだけど……なんでヴァルギアって女の子しかいないんだろ」


 食堂の空気が、今度は別の意味で少しだけ静かになる。


 エレナも、思わず顔を上げた。


 確かに、今まで当たり前のように目の前の光景を見ていた。

けれど言われてみれば、ここにいるのは皆、同じくらいの年頃の少女ばかりだ。

年齢差は多少ある。背格好も性格も違う。だが、それだけだった。


「わたしも思ったことある」


 ルナが小さく言う。


「たまに整備兵の人たちが、“また少女型か”って言ってるの聞くし」


「少女型って言い方も嫌よね」


 セリナが少しだけ眉をひそめた。


 エレナはクラリスの方を見る。

こういう時、彼女は帝国の公式に近い答えを知っていそうだった。


 実際、クラリスは数秒考えてから、きちんとした口調で答えた。


「実験の結果、最も高い適性と安定した出力が確認されたのが、十五歳から二十歳前後の少女だったからよ」


「へえ……」


 ミリアが気の抜けた声を出す。


「でも、なんでその年代の女の子だけなの?」


「そこまでは知らないわ」


 クラリスは正直にそう言った。


「少なくとも、わたしが聞かされているのは“最も成果が出る条件がそこだった”ということだけ」


「理由までは分からない、ってこと?」


 エレナが訊くと、セリナが静かに頷いた。


「わたしも似たような話しか聞いてないわ。

適性試験と投与実験を何年も繰り返した結果、その条件に集中したって」


「集中した、ねえ」


 ノエルが鼻で笑った。


「理由が分からなくても使えるなら使う。それが帝国だろ」


 その言い方は投げやりだったが、誰も否定しなかった。


 フィオナだけが少し首を傾げる。


「でも、気味悪くない?」


「気味悪いよ」


 ミリアが即答する。


「めちゃくちゃ気味悪い。だって“なんでか分かんないけど君たちが一番向いてました”ってことでしょ? 嫌なんだけど」


「同意見」


 カティアが短く言う。


「成果だけ出てて理由が分からないって、ろくな話じゃない」


 イリナは少しだけ視線を落とした。


「理由が解明されてないってことは、帝国も本質までは理解してないってこと」


「理解してなくても使うのが、あいつらなのよね」


 セリナの声はやわらかいままだったが、その奥にかすかな苦味が混じっていた。


 エレナは黙ったまま、自分の手を見下ろした。


 第一章で目覚めた時から、自分の身体は自分のものではなくなっていく感覚があった。

けれど今の話を聞いていると、それはもっと前から決まっていたことのようにも思えてくる。


 なぜ自分たちなのか、誰にも分からない。


 分からないまま、成果が出たから使われている。


 その事実が、妙に重たかった。


「……やだな、それ」


 フィオナが小さく呟く。


 その一言だけが、妙に胸へ残った。


 食堂の隅で静かに食器を置く音がした。


 リゼットだった。


 いつからそこにいたのか分からなかった。

壁際の席でひとり、簡素な食事を終えたらしい。視線だけがこちらへ向く。


「少尉」


 フィオナがぴしっと背筋を伸ばす。


 リゼットは全員を一度見回し、エレナのところで少しだけ視線を止めた。


「もう起きて歩けるなら、午後は自由時間にしていいわ」


 ミリアが目を丸くする。


「え、ほんとに?」


「エレナだけよ」


「ですよねー」


 ミリアは残念そうに肩を落とした。


 リゼットはそれを無視して続ける。


「ただし休め。勝手に訓練場へ来ないこと。

今日必要なのは、出力を上げることじゃなくて、昨日見たものを整理すること」


 その言葉に、食堂の空気がほんの少しだけ静かになる。


 昨日の戦いを、誰も完全には飲み込めていないのだろう。


 リゼットはそれ以上何も言わず、外套を翻して去っていった。


「隊長って、ああいう言い方ずるいよね」


 ミリアが小声で言う。


「優しいのか厳しいのかよく分かんない」


「両方だろ」


 ノエルが言う。


「だから隊長やれてる」


 その声には、ぶっきらぼうなりの信頼が滲んでいた。


 昼過ぎ、エレナは医療棟近くの休息室へ移った。食堂ほど広くなく、長椅子と低い机が並ぶだけの簡素な部屋だ。

窓は高い位置に細く設けられていて、外の空は切り取られたみたいに見える。


 先にそこにいたのは、ミリアとフィオナだった。


「また来たの?」


「わたしたちの方が先だよ」


「あと、今日は午後訓練ちょっと軽めだから」


 ミリアが長椅子の上でころりと寝転ぶ。

フィオナは机に頬杖をつきながら、何やら髪留めをいじっていた。


 少しして、カティアが片手に飲み物を持って入ってくる。


「ここいたんだ。探した探した」


「え、わたしたち?」


「主にフィオナ」


 カティアはフィオナの額を軽く小突き、もう片方の手に持っていた小さな包みを机に置いた。


「これ、さっき落としかけてた髪留めの予備。次なくしたら知らないよ」


「えっ、ありがとう!」


「礼はちゃんと持ってろって意味込みで聞いとく」


 豪快に笑いながら、カティアは空いている椅子へどっかり座った。


 さらに少し遅れて、イリナが静かに扉を開ける。


「ここなら静かだと思ったのに」


「もう静かじゃないよ」


 ミリアが言う。


「見れば分かる」


 そう返しながらも、イリナは出ていかなかった。机の上に少しずれていたコップを自然に端へ寄せ、誰かが引っかけない位置に直してから腰を下ろす。


 そういう動きが、いかにも彼女らしかった。


「ほんとはさぁ」


 ミリアが天井を見たまま言う。


「こういう時、もっと普通の話したいんだよね」


「普通の話?」


「そう。なんか、戦争とか訓練とかじゃなくて、ほんと普通の。好きなお菓子とか、かわいい服とか、そういうの」


 フィオナがすぐに食いつく。


「わかる! わたしも帝都の南区にある焼き菓子屋さん好きだった」


「え、どんなの」


「丸いやつ! 上に砂糖かかってるやつ!」


「雑!」


 思わずエレナも笑ってしまった。


 ミリアがくすくす笑いながら起き上がる。


「でも、そういうの話せる相手がいるだけまだましかも」


「……うん」


 エレナは頷いた。


 初陣のあとで、自分が何を失ったのかまだうまく言えない。けれど少なくとも、ここにいる少女たちと過ごすこういう時間が、簡単に壊れてほしくないものなのだということは分かった。


 そこへ、少し遅れてセリナもやってきた。


「ここにいたのね」


「セリナも休憩?」


「少しだけ」


 彼女はエレナの向かいへ座り、窓の方を見上げた。


 しばらく他愛のない会話が続いたあと、不意にフィオナがぽつりと言う。


「ねえ、ずっとこんなふうならいいのにね」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ止まった。


「こんなふうって?」


 ミリアが訊く。


「その……出撃とかない日。皆で話してるだけの日」


 フィオナは少し照れくさそうに笑った。


「なんかさ、こうしてると普通っぽいじゃん。わたしたちも」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 普通。


 その言葉が、エレナの胸の奥で重く沈む。


 セリナが静かに口を開いた。


「戦争が終わったら、静かなところで暮らしたいわ」


 窓の向こうを見たままの声だった。


「大きな音がしなくて、誰も空を見上げて怯えたりしないところ。

朝はゆっくり起きて、お茶を飲んで、夜はちゃんと眠れるような……そういう場所」


 ミリアが小さく笑う。


「セリナらしい」


「変かしら」


「ううん。いいと思う」


 エレナは答えた。


 それは本心だった。そんな場所があるなら、見てみたいと思った。


 扉の近くで、ルナが小さく頷く。


「……静かなところ、わたしも好き」


 カティアがにやりと笑う。


「じゃあその時はあたしも混ぜてもらおうかな。騒がしい担当で」


「静かなところに一番向いてない人来た」


 ミリアが即座に言って、皆が少し笑った。


「クラリスは?」


 フィオナが訊く。


 ちょうどそのタイミングで部屋の前を通りかかったクラリスが足を止めた。聞こえていたらしい。


「何が?」


「戦争終わったら、の話」


 クラリスは少しだけ考える素振りを見せたあと、真面目な顔で言った。


「終わるなら、その時考えるわ」


「うわー、真面目」


「現実的と言ってほしいわね」


 ミリアがけらけら笑う。


 けれどクラリスはそのまま立ち去らなかった。少しだけ視線を落として、静かに付け加える。


「……でも、誰も死なないで済むなら、それが一番いいに決まってるでしょう」


 それだけ言うと、今度こそ彼女は行ってしまった。


 部屋には、少しだけやわらかな沈黙が残る。


 その時、今までほとんど口を開かなかったヴェラが、低い声でぽつりと言った。


「静かな場所なら、音を気にしなくて済む」


 皆がそちらを見る。


 ヴェラは窓の外へ視線を向けたまま続けた。


「今は、何か鳴るたびに出撃かと思うから」


 短い言葉だった。けれど、それはたしかに彼女自身の本音のように聞こえた。


 エレナは少しだけ驚く。


 ヴェラは静かで、感情の起伏も薄く見える。けれど今の一言には、ちゃんと疲れた人の重さがあった。


 エレナは窓の向こうの空を見た。細く切り取られた灰色の空。

第一章で見た“檻の天井”ほどではないにしても、やっぱり自由には見えなかった。


 それでも今この瞬間、この部屋の中には確かに“普通”があった。


 戦闘服の愚痴を言って、焼き菓子の話をして、静かな場所で暮らしたいと話す少女たち。


 その時間が、たまらなく脆く思える。


「ずっと一緒だよね」


 フィオナが、不意にそう言った。


 あまりにも自然な口調だった。だから一瞬、誰も何も言えなかった。


「……何それ、急に」


 ミリアが笑って返す。


「だって、同じ部隊だし」


「まあ、そうだけど」


「ほら、エレナも来たし。これからもっと楽しくなるかなって」


 フィオナは悪びれずに笑う。無邪気で、真っ直ぐで、何も疑っていない笑顔だった。


 エレナはその顔を見つめたまま、小さく息を吸った。


「……そうだといいね」


 それが精いっぱいだった。


 夕方近く、休息室を出たところでリゼットと鉢合わせた。


「少尉」


 エレナが呼び止めると、リゼットは足を止める。


「何」


 相変わらず簡潔だ。


「昨日のこと、少しだけ整理できた気がします」


「少しだけ?」


「全部は、まだ無理ですけど」


 そう言うと、リゼットはわずかに視線を細めた。


「それでいい」


「いいんですか」


「全部を一日で飲み込める方が危ないって言ったでしょう」


 第一章と第二章で何度も聞いたような、静かな声音だった。


 エレナは一瞬ためらってから、思い切って口を開く。


「少尉は……怖くないんですか」


 リゼットは答えなかった。


 ただ少しだけ、壁にもたれかかるように肩を預ける。その姿勢が、ほんの僅かに疲れて見えた。


「怖いわよ」


 返ってきた声は小さかった。


 エレナは思わず目を見開く。


「いつだって」


 リゼットは淡々と続ける。


「ただ、怖がってる時間を表に出しすぎると、後ろの子がもっと怖がるから隠してるだけ」


 その答えは、思っていたよりずっと人間らしかった。


 けれど、その後に続いた沈黙には、どこか言葉にならない空洞があった。


「……味とか、ちゃんと分かりますか」


 ふと、昼の食堂で思い出したことを口にしてしまう。


 リゼットが小さく眉を寄せた。


「急に何」


「いえ、その……今日のスープ、あんまり味がしなくて。少尉はいつも平気そうだから」


 半分は咄嗟の言い訳だった。


 本当は、もっと別の違和感があったのかもしれない。けれどそれをまだ言葉にはできなかった。


 リゼットはほんの一瞬だけ黙る。


 それは、とても短い間だった。けれどエレナには妙に長く感じられた。


「元から、そういうのに頓着しないだけ」


 そう答えた声はいつも通りだった。


 でも、その一瞬の間がなぜか引っかかった。


 エレナが何か言おうとした時、廊下の奥から呼び出しの声が飛ぶ。


「少尉、作戦局から」


「今行く」


 リゼットは短く返すと、エレナへ視線を戻した。


「今日はちゃんと眠りなさい」


「……はい」


「命令よ」


 それだけ言って歩き去る。


 エレナはその背中を見送りながら、さっきの僅かな沈黙を思い返していた。


 たぶん、気のせいだ。


 そう思おうとしたのに、胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残った。


 夜、寝台へ戻ったあとも、しばらく眠れなかった。


 初陣の残像。

フィオナの無邪気な「ずっと一緒だよね」。


セリナの語った静かな場所。


クラリスの現実的で、それでも少し優しい言葉。


リゼットの短い沈黙。食堂で交わされた、なぜ自分たちが少女なのかという答えのない話。


ヴェラの短い本音。


イリナの冷静すぎる気遣い。


カティアの豪快な笑い声。ルナの小さな頷き。グレイスの硬い声。


 いくつもの声が、暗い天井の下で混ざり合う。


 窓の外には、もう夜の色が落ちていた。


 基地の灯りが遠くで瞬き、その向こうに見える空はやはり高くて、自由には見えなかった。


 それでも今日、ほんの少しだけ思ったのだ。


 この檻の中にも、守りたいものはあるのかもしれない、と。

お読み頂き、ありがとうございます。


本作品の更新は、ほぼ毎日18:00か19:00を予定しています。

次のエピソードもお読みいただけたら嬉しいです!

執筆の励みになりますので、感想コメントもお待ちしております。


よろしくお願いいたします。

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