ストーリー035 上石見・般若間の戦い・その意義について
英雄の教壇 上石見・般若間の戦い・その意義について
遡ること58年前。正暦1797年「明照2年」春、異世界からの転移としか思えない大量の堆積物が韓半島と我が国、日本列島の間に飛来した。のちに「黒道」と呼ばれることになるその忌まわしい地峡を伝い、ユーラシア大陸から陸路で九州島に到達することが可能となった。
その翌年から本格化する「地球連邦」による「日本帝国」の侵略。陸上兵力を十分に持たない我が国、「帝国」は、圧倒的な兵力の「連邦」に次々と領土を侵略されていった。その魔手は九州島だけに留まらず、狭い海峡を隔てほとんど地続きの中国地方へ。「日向」、「岩国」、「青海」、「播磨」と、ついには西部の4県もが侵略に晒される結果となる。
海軍の勝利など、一部の朗報もあったが、埋まらない兵力差と銃火器の火力差によって陸上においては常に不利を強いられ、我らは領土と人命、自信すら失いつつあった。開戦から既に2年近くが経過していた。
遡ること55年前。正暦1800年「明照5年」、泥沼の戦況の中、失意に沈む我らが帝国に、彼、山田驍が現れた。平和な異世界『かなた』より転移した彼は、転移の際に鉄を感知し、自在に操る能力を身につけていた。そして彼はその能力を遺憾なく発揮して、「上石見・般若間の戦い」において、帝国軍を勝利に導いた。彼は名実ともに大和一郎の遺志を継ぐ者となったのである。
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真っ白な髭を弄りながら、塚原醍醐は一旦言葉を切った。最初はどことなく弛緩した空気のもとで始まったこの講義だったが、急に士官候補生たちが熱心に耳を傾け始める、メモを取り始めるなど態度が変わってきた。それはそうだろう。歴史を学ぶ場とはいえ、今までは帝国の敗戦譚ばかりだった。
自国の負け戦の話を聞いて面白いと感じる者などいないだろうと塚原自身も思う。山田驍の参戦により、帝国は息を吹き返してゆく。生徒たちも学びつつ、自らの想いを重ねてゆく。
自身の体験談を交え、この講義を進めるにつれ、懐かしい思い出が昨日のことのように黄泉がえり、つい熱が入ってしまった。「戦略論」と銘打ったこの講義を進める者としては、もう少し冷静でありたかった。少し熱く語り過ぎただろうか?またしても塚原は反省した。だが実は、そんな生身の塚原の生きた話の方をこそ若い生徒たちは望んでいるのではないかとも思われる。あながち的外れではないのだ。多くの生徒が、塚原自身の能力開発への参加や一騎打ちの話にも目を輝かせていた。笑いもあった。それはまるで昔話にかじりつく親戚の子供のようだった。
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帝国軍の記録によると、敵方の被害は甚大、まさに壊滅的で、自軍にはほとんど被害が発生しなかった。戦闘不能は重傷でまともに戦えないものの、命に別条がないものを指している。山田驍が鋼鉄の雨に鈍らの剣を用いたことで、連邦軍の死亡者数もかなり抑えれれる結果とはなった。半面、腕やわき腹を骨折するなどして重傷を負い、戦闘不能となったものは多かった。矢を受けた者も、命に別条がないもののかなりの体力消耗を起こし、外科的治療も必要となり、戦闘不能になるものが多かった。戦闘不能者のその後は、本人の体力、周囲の衛生、治療環境などによって大きく変わってくるが、あくまで一時的な戦闘による事後の状況として計算している。
帝国軍 連邦軍
総兵力 1,789 3,900
死者 8 220
戦闘不能 57 1,100(捕虜になったものも含む)
捕虜 0 532
撤退、退却時に連邦軍が落としていった銃火器をはじめとする武器なども多く接収した。これもまた勝利の醍醐味でもある。敵のマスケット銃であれ、適切な紙薬莢を用いれば発砲可能な当時の状況では、流用することも十分可能だったのだ。
戦いを目前にして敵の大将である項道栄は帝国軍の事を野蛮な侍と蔑んだ。その野蛮な侍に深い森林の中で奇襲されることを彼は極端に恐れた。そして、ヤマネコと呼ばれる能力者達を使って綿密な偵察を行ったうえで進軍したはずだった。だが、それだけのことをしたにもかかわらず、彼は最も危惧した通り、野蛮な帝国軍によって飯森の奥深くで奇襲を受けて敗北した。
だが実際の戦況を見てどうだったろうか?我々帝国軍が野蛮な蛮族だっただろうか?そのようなことは唾棄すべき話だという事が一目で分かる。小此木大佐や山田驍が中心となって戦術を組み立てた帝国軍の戦いは、高度な情報戦だった。地の利を知り尽くし、それを活用し、敵の情報収集を妨害するどころか、誤った情報を植え付け、誘導することにすら成功しているのだ。その後も帝国軍は綿密に各部隊の位置情報を収集し、戦い方を組み立てていることが伺える。
攻撃面では山田の圧倒的な攻撃能力は般若山麓での決戦の際の一度だけ発揮された。それ以外では、その他の能力者、能力ないもの関係なく、皆が連携して、それぞれが自らの持ち場を守り切った。山田の能力や、その他の隊員達の能力を最適に戦略にしっかりと組み込んだ上層部にも脱帽である。信頼と絆でその勝利をつかんだ仲間たちに能力のあるなしなど関係もない。
こうして帝国軍は連邦軍を翻弄し、完膚なきまでに打ち負かした。そして、ほとんどの仲間たちが無事に生還し、お互いの奇跡的な勝利を、生存を讃え、喜び合うことが出来たのだ。
国を掴むとかけての国津神戦争。それは八百万の神の末裔である我ら帝国人がその魂を削って戦った、未曽有の国家危機、未曽有の本土決戦であった。それに負けることは、国家の存亡を意味していた。
「明照5年」の「上石見・般若間の戦い」は、確かにいくつかの大隊同士が激突した小さな戦いに過ぎない。帝国軍が連邦軍に与えた小さな、小さな反撃の狼煙に過ぎない。それでも間違いなく輝かしい勝利を手にした戦いであり、皆の魂に焔が宿った瞬間だった。その勝利は、やがて大戦の気運そのものを変えてゆく分水嶺となるのだった。この戦い以降、帝国軍と連邦軍の立場が少しずつ逆転してゆくこととなる。
講義は続いてゆく。山田驍とともに歩む帝国軍の、伝説の時代が語られようとしている。
生徒たちの真剣なまなざしが、英雄、塚原醍醐をしっかりと捉えた。




