第9話 泣きつく元婚約者
魔物たちが一斉に飛びかかってきた。
「グギャアアアアアッ!」
ゴブリンたちが牙を剥き、武器を振り上げながら迫ってくる。その後ろにはオーク。さらに、その巨体で通路を塞ぐようにオーガまで続いていた。
大量の魔物が津波のように押し寄せてくる。
「……試してみるか」
僕は右手をゆっくりと握った。身体の奥から熱が湧き上がった。心臓を中心に、熱い魔力が血管を駆け巡っていく。
指の隙間から、赤い光が漏れ始める。
「火よ」
僕は握った拳を、地面へ叩きつけた。
ゴオオオオオオオオオオッ!!
僕の目の前から、巨大な炎の壁が噴き上がった。炎は高く燃え上がり、通路いっぱいに広がっていく。
「ギャアアアアアアッ!」
先頭のゴブリンが炎に飲まれる。その炎は止まらない。後ろのオークも。さらに奥のオーガまでも。すべてを巻き込みながら、炎の濁流が通路を駆け抜けていく。
「グオオオオオオッ!」
しかしオークとオーガが炎の中から姿を現した。巨大な腕を振り回し、無理やり炎を突破しようとしている。僕はそれを見て、右手をゆっくりと握り直した。
「……火力を手加減しすぎたか。なるほど」
拳の周囲で炎が渦を巻く。僕は拳を前へ突き出した。
「インフェルノ・バースト」
オークたちの巨体を炎が飲み込む。数秒後。炎がゆっくりと消えていく。残ったのは、黒く焼け焦げたオークの残骸だけだった。
残すはオーガのみ。
「次は、別の属性を試すよ」
僕は左手を上げた。僕は人差し指を立てる。空中へ一本の線を引いた。
スゥゥゥ……。
指先が通った場所から、白い霜が広がっていく。もう一本。さらに一本。空中に複雑な紋様が描かれていく。
「氷よ」
最後に、指先で中心を軽く叩いた。
――カキンッ。
世界が凍った。
パキパキパキパキパキッ!!
地面が。壁が。天井が。白く染まっていく。オーガたちの足元へ氷が走り、身体を地面へ縫い付ける。
「グオッ!?」
オーガが力任せに足を引き抜こうとする。僕は指を一本だけ動かした。通路の天井に巨大な氷の槍が形成されていく。
ギギギギギ……。
指先を下へ向けた。巨大な氷槍が落下する。
「アブソリュート・ゼロ」
ズドォォォォォォン!!
氷槍がオーガたちを貫いた。同時に、一瞬で全身が完全に凍りつく。
「砕けろ」
パキッ。小さな亀裂が入った。それが全身へ広がっていく。
パキパキパキパキパキッ!! バキィィィィィィン!!
オーガの巨体が、氷の彫像ごと粉々に砕け散った。
以前の僕なら、魔物を一体倒すことすらできなかった。それなのに今は、こんな大群を一人で相手にして勝利した。
「いいね、魔法」
僕は逆立っていた髪を手でかき上げ、そのまま後ろへ流した。本を片手に持ち直す。目的地は一つ。クロエのいる場所だ。
僕は魔物の死体を踏み越え、再び歩き出した。
本に表示される情報を頼りに進んでいくと、やがて通路の先から泣き声が聞こえてきた。か細く、震えた声だった。ゴブリンたちの唸り声に混じって聞こえてくる。間違いない。その声はクロエだった。
僕は本を閉じ、通路の先へ進んでいく。曲がり角を抜けると、そこにクロエがいた。
「いや……、来ないで!」
クロエは壁際に追い詰められていた。その周囲を、何体ものゴブリンが取り囲んでいる。ゴブリンロードやゴブリンシャーマンの姿もある。逃げ場はない。クロエは完全に怯えきっており、両手で杖を握りしめながら、必死に魔物たちを遠ざけようとしていた。けれど、恐怖で身体が震えているせいか、まともに詠唱すらできていない。
僕はそんなクロエを見ながら、ゆっくりとゴブリンたちの方へ歩いていく。
「グァッ……」
ゴブリンたちが一斉に僕を見る。唸り声を上げる。けれど、僕は気にしない。そのまま一歩、また一歩と距離を詰めていく。
「消えて。話の邪魔」
指をパチンと鳴らす。
次の瞬間、僕の足元から黒い闇が広がった。闇の魔法だ。意思を持った影のように地面を這い、ゴブリンたちの身体へ絡みついていく。
「ギャ……ッ!?」
一体が声を上げるより早く、その身体が闇の中へと沈んだ。続いて二体、三体と飲み込まれていく。抵抗する暇すらない。ほんの数秒後には、そこにいたゴブリンたちは一匹残らず消え去っていた。あとに残ったのは、静まり返った通路だけだった。
クロエが目を見開く。僕の顔を食い入るように見つめた。
「ノア? あなた……、ノアなの?」
僕は答えなかった。ただ、クロエを見返す。クロエの表情が崩れた。
「ノア!」
クロエは弾かれたように駆け寄ってきた。僕の胸に飛び込んでくる。
「怖かった……!」
細い身体が震えている。クロエは僕の服を強く握りしめ、胸元へ顔を押しつけた。
「怖かったの! 本当に怖かった……!」
声が震えている。呼吸も乱れている。さっきまでゴブリンに囲まれていたのだから、当然だろう。死ぬと思っていたはずだ。そんな極限状態で現れた僕は、クロエにとって唯一の助けだった。
だから、こうしてすがってくる。
以前の僕なら――。
きっと抱き返していた。「大丈夫だよ」「もう怖くない」「僕がいるから」そう言って、彼女の背中を撫でていた。クロエが泣けば心配した。クロエが苦しんでいれば、自分のことなんて後回しにして助けようとした。
それが僕にとって当たり前だった。でも今の僕は違った。クロエの身体が僕に触れている。服を掴まれている。胸元に顔を押しつけられている。その全部が、ただ鬱陶しい。
「……離れて」
「え?」
クロエの身体がぴくりと止まった。ゆっくりと顔が上がる。涙で濡れた瞳が、僕を見つめる。
「ノア……?」
僕はもう一度言った。
「離れてくれる?」
「……」
クロエの手が、僕の服から離れた。その顔には、戸惑いと不安が浮かんでいる。その表情を見ても、僕の心は痛まなかった。
「お腹、空いてる?」
「……うん」
クロエは小さく頷いた。僕は持っていた食料を取り出した。
「これ、食べて」
「ありがとう……!」
クロエはすぐに受け取った。そして、夢中になって食べ始める。パンを頬張り、水を飲み、またパンへ手を伸ばす。よほど空腹だったのだろう。僕は黙って、その様子を見ていた。
「これが、君にとって最後の食事になるかもしれないから。大事に食べて」
「……っ」
クロエの手が止まった。
「最後って……。何を言ってるの?」
「そのままの意味だよ」
僕は淡々と答えた。クロエは僕を見つめる。その瞳には、不安と緊張とがうかがえた。僕はその視線を受け止める。そしてクロエへ問いかけた。
「ルーカスと幸せになれるといいね?」
「え?」
クロエが目を見開いた。僕はそれ以上何も言わず、ただ彼女を見つめる。




