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第10話 僕はもう、君を必要としていない

「ルーカスと幸せになれるといいね?」

「え?」


クロエは、聞いてはいけない言葉を聞いたような顔をした。次の瞬間、慌てたように首を横へ振る。長い髪が乱れた。


「何言ってるの? 私はノアの妻になるんでしょ」


それが当然の未来であるかのようにクロエは言った。僕を捨てることなど、最初から存在しなかったみたいに。


「じゃあ、どうして僕をこのダンジョンに置き去りにしようとしていたの?」


クロエの動きが止まった。呼吸まで止まったように見えた。目が大きく見開かれ、その瞳がわずかに揺れる。明らかに動揺していた。どうして僕がそのことを知っているのか分からない。そんな疑問が、その表情にははっきりと浮かんでいる。


「な、何のことか分からないわ」


クロエはそう言って視線を逸らした。声も少しだけ上ずっている。


僕は何も言わず、しばらく彼女を見つめた。目の前にいる彼女が、どんな顔をして、どんな言葉を選ぶのかを見ていた。


「……」


やがて、僕は小さく息を吐く。


「まあ、いいや」


もう追及する気にもなれなかった。何を言わせても意味がない。僕が知っている事実は、クロエの言葉なんかで変わるものではない。


そのまま歩き出す。


「待って!」


すぐに背後から声が飛んできた。


タッ、タッ、タッ。


慌てた足音が近づいてくる。僕は振り返らない。


「どこに行くの?」

「どこって、ダンジョンを出るんだよ」

「私も一緒に行く!」


図々しい女だ。


「どうして?」


僕が足を止めて振り返ると、クロエは不思議そうな顔をしていた。その質問自体が理解できないと言わんばかりだった。


「私を守ってよ」


僕は一瞬、言葉の意味が分からなかった。僕は食料も与えたのに、守る義理なんてない。


「なぜ?」

「はあ?」


クロエの顔には驚きが浮かび、次第に怒りへと変わっていく。


「妻を守るのが夫の役目でしょ?」


あまりにも堂々と言うものだから、僕は思わず吹き出してしまった。


「浮気した女を、浮気された男が守るなんて聞いたことがないよ」

「浮気って……!」


クロエの顔が一気に赤くなる。


「それはノアの勘違いでしょ!」


必死だった。自分は悪くないと言うように、クロエは声を張り上げる。


「でもダンジョンを出た後、ルーカスと結婚する予定になってるじゃないか」

「……え?」


クロエの表情が固まる。僕は淡々と言葉を続けた。


「ミスリル製の結婚指輪をつけられるように、頑張って脱出できるといいね」


クロエの顔から血の気が引いた。唇がわずかに震えている。僕は未来から来てるから、全部知ってるんだよ。


「それじゃ。お幸せに」


僕は歩き出す。けれどクロエは僕の前へ回り込み、両腕を広げるようにして進路を塞ぐ。


「私とルーカスが一緒にいるところを見たから、そんなこと言ってるんでしょ?」

「……」

「違うから! 私が好きなのはノア、あなただけよ!」


クロエは何度も否定する。決して自分の罪を認めない。でもどれだけ必死に否定しても、僕の知っている事実は消えない。僕を置き去りにしようとしたことも。その後、ルーカスからミスリルの指輪を受け取ったことも。


「認めないならいいよ。今までありがとう。元気で」


僕はクロエの横を通り過ぎようとした。今度は服を引っ張られた。


「待って!」


クロエは僕の服を握ったまま、涙の浮かんだ目で僕を見上げていた。


「認めたら許してくれる?」

「許すも何も、もう僕は君のことが好きじゃないし、どうだっていいよ」


即答した。クロエの表情が凍った。


「そんなの酷い……」


その声は、今まで聞いたことがないほど弱々しかった。


「酷い? 僕が?」

「違う。違うの。だって、ルーカスが悪いの!」


はぁ、もううんざりだ。


「だって、ノアは記録ばっかりで私に構ってくれなかったじゃない。寂しかったの! 私だって、辛かったのよ!」


僕はポカンとした顔でクロエを見ていた。


以前の僕なら、自分自身を責めていたはず。もっとクロエのそばにいればよかった。もっと話を聞いてあげればよかった。


でも、今は違う。胸の奥が痛むこともない。怒りも湧かない。悲しくもない。何も感じなかった。不思議だ。クロエがどれだけ理由を並べても、僕の中には何も残らない。全部が自己正当化の言い訳に聞こえる。自分は悪くない。悪いのはルーカス。悪いのは構ってくれなかった僕。


そうやって、クロエは自分以外の何かに責任を押しつける。


僕はそんな彼女を見ながら理解した。もう、終わったんだ。僕がクロエに向けていた感情は、いつの間にか綺麗に消えていた。


だからもう、あっさりと別れてしまおう。僕は小さく笑った。


「ごめん、ごめん。てっきり、僕が貴族から平民になったからルーカスに乗り換えたんだと思っていたよ」

「……違う!」

「あっそ。それじゃ」


僕はそれだけ言って、歩き出した。またクロエの手が伸びてくる。けれど、その手が僕の服を掴むより先に、僕は身体をそらした。


「ノア……!」


背後から名前を呼ばれる。僕は振り返らない。


「お願い、待って!」


足音が追ってくる。


「私、貴族の女なんだけど!」


僕は無視する。


「女よ! 貴族の!」


それでも止まらない。止まるはずがない。


「女ぁぁぁああああっ!」


ダンジョン中に、クロエの叫び声が響き渡った。反響した声が何度も壁を跳ね返り、暗い通路の奥へ消えていく。


僕は振り返らなかった。この女に関わった時間は、無駄だった。今の僕にあるのは、それだけだった。どれだけ呼ばれても止まらない。


僕はただ前へ進む。


背後から聞こえていたクロエの声が、少しずつ小さくなっていく。僕の心は、もう君から離れている。生きて出ようが死のうが、僕の知ったことではない。





そのとき、正面の暗闇から、誰かが歩いてきた。


コツ。


コツ。


コツ。


硬い足音が通路に響いて、一定の間隔でこちらへ近づいてくる。魔物ではない。


僕は足を止めた。誰だろう。僕は本を片手に持ったまま、暗闇を見つめる。


そして、暗闇の中から人影が現れた。


その男は、一見すると人間とほとんど変わらない姿をしていた。二本の腕に二本の脚。けれど、人間にはないものがいくつかある。頭から伸びた二本の角。人間よりも少し尖った耳。その特徴は、歴史書で見た魔族の姿がそのまま重なっていた。


「……魔族」


そして、薄暗い通路の中でも分かるほど鋭い目つき。その目だけを見れば、獲物を狙う猛獣のようにも見える。


でも口元には、妙に人懐っこい笑みを浮かべていた。ニヤニヤと楽しそうに笑いながら、こちらへ歩いてくる。そのアンバランスさが、逆に不気味だった。そいつはまるで、近所の知り合いにでも会ったかのような気軽さで歩み寄ってくる。

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