第6話 幸せだった日々は、もう戻らない
僕はパーティーのみんなの元を離れ、隣町まで歩いた。ひたすら歩いた。何も考えたくなかった。ただ、あの場所から離れたかった。
街に着いたころには、もう日が暮れかけていた。僕は適当に見つけた宿に入り、部屋を借りた。
「……」
部屋に入ってからも、僕はずっとぼーっとしていた。宿の主人が用意してくれた食事も、ほとんど手をつけられなかった。
「食べないと……」
そう思って、無理やり料理を口に運ぶ。けれど、食事が喉を通らない。口に入れても味が分からなかった。ナイフとフォークを置く。もう、何かを食べる気力すら残っていなかった。
僕はそのままベッドに倒れ込んだ。天井を見つめる。頭の中に、何度もあの光景が浮かんできた。クロエが、汚いものを見るような目で僕を見ていた。僕を見下して。馬鹿にして。ルーカスの隣に立っていた。
「……なんでだよ」
声が震える。僕は腕で目を覆った。
「なんで……」
涙が、また頬を伝った。悔しかった。悲しかった。仲間に裏切られたことも辛い。ダンジョンに置き去りにされ、殺されかけたことも許せない。でも何より苦しかったのは、クロエに裏切られたことだった。
目を閉じると、昔の記憶が蘇ってきた。
まだ僕たちが駆け出しの冒険者だったころ。今よりずっと弱くて、依頼を受けても毎回のように緊張していた。
僕は戦えないから、みんなの後ろについていくことしかできなかった。それでも、少しでも役に立ちたいと思っていた。
そんなころのことを、僕は思い出していた。
初めてクロエと一緒に依頼を受けた日のこと。魔物との戦いで僕が足を取られて転んだとき、クロエは誰よりも早く駆け寄ってきてくれた。
「大丈夫、ノア?」
「うん……。ちょっと転んだだけ」
「無理しちゃ駄目よ」
クロエはそう言って、僕の傷を治してくれた。淡い光が傷口を包み込んでいく。痛みが消えていくのを感じながら、僕はクロエの顔を見上げていた。心配そうに僕を見つめる表情。そして、僕が無事だと分かったときに見せてくれた笑顔。
あの笑顔が好きだった。
僕の魔物に関する記録を褒めてくれたこともあった。依頼の途中で休憩していたとき、僕がまとめていた記録をクロエが覗き込んできた。
「これ、全部ノアが書いたの?」
「うん。役に立つか分からないけど」
僕は少し恥ずかしくなって、本を閉じようとした。戦えるわけでもない僕にできるのは、魔物の情報を記録することくらいだった。
「すごいじゃない」
「僕は戦えないし、これくらいしないと」
「そんなこと言わないで」
クロエは優しく言った。
「ノアがいるから、私たちは魔物と上手に戦えるんでしょう?」
「……僕がいるから?」
「そうよ。魔物の弱点とか、習性とか。ノアが教えてくれるから、私たちは安心して戦えるの」
その言葉が嬉しかった。自分にも、ちゃんとできることがある。そう思わせてくれたのは、クロエだった。
依頼が終わった帰りに、突然雨が降ってきたこともあった。空はさっきまで晴れていたのに、突然、大粒の雨が降り始めた。僕は傘を持っていなかった。
「ノア、一緒に帰りましょ」
クロエが自分の傘を開きながら、僕を見る。
「……あ、ありがとう」
僕が傘の中に入ると、肩が触れそうなほど距離が近くなった。雨の音が傘を叩いている。隣から聞こえるクロエの足音。それだけで胸が高鳴った。
「ふふっ。そんなに緊張しなくてもいいのに」
「し、してないよ」
「本当に?」
クロエが笑う。
「もし風邪を引いても、治してあげるから」
クロエは楽しそうに笑っていた。あの日の帰り道は、僕にとって忘れられないくらい嬉しい時間だった。
そしてクロエと付き合うことになった日。夜、野営中に記録をまとめているときのこと。みんなが眠り始めても、僕は焚き火の明かりを頼りに、その日の魔物について補足情報を記録していた。
この情報を売れば、お金になる。そして、次に同じ魔物と戦う人の役に立つかもしれない。そう思うと、手を止めることができなかった。
「ノア」
背後からクロエの声がした。
「無理しすぎよ。明日にすればいいでしょう?」
「うん。もう少しだけ」
「ノアって、本当に真面目ね」
「そうかな?」
「うん。私は好き。そういうところ」
思わず顔を上げる。クロエは僕を見て笑みを見せた。
「ふふっ。はい、コーヒー」
クロエは温かいカップを差し出した。
「ありがとう」
カップを受け取る。冷えた夜の空気の中で、その温かさが手にじんわりと伝わってきた。コーヒーの香り。焚き火の音。そして、すぐ隣にいるクロエ。クロエはうるんだ瞳で、僕をじっと見つめていた。僕たちは、ゆっくりと顔を近づけて唇を重ねた。
僕の誕生日に、小さな焼き菓子をくれたこともある。
「ノア、誕生日おめでとう」
「え、覚えててくれたの?」
「当たり前でしょ。ノアの彼女なんだから」
そう言って、クロエは小さな包みを僕に渡した。開けてみると、中には手作りの焼き菓子が入っていた。形は少し不揃いだった。でも、それが逆に嬉しかった。
「手作りだから味は保証できないけど」
「……ありがとう、クロエ」
「そんな泣きそうな顔しないで」
クロエは少し困ったように笑った。
「来年もちゃんと祝ってあげるから」
「……うん」
僕は、その言葉を信じていた。来年も。その次の年も。ずっとクロエと一緒にいられると思っていた。
そして、クロエに婚約指輪を渡したときのこと。あの日は、何度も練習した言葉が頭から飛んでしまうくらい緊張していた。
「クロエ。これ……」
「指輪?」
「うん。高いものじゃないけど……」
僕が差し出した指輪を、クロエはじっと見つめていた。僕は不安になった。もっと高価なものを用意できればよかった。もっと綺麗なものを贈れればよかった。そんなことを考えていた。けれど……。
「そんなの関係ないわ」
クロエは嬉しそうに指輪を受け取った。
「ノアが私のために選んでくれたんだもの。ありがとう。嬉しいわ」
クロエが指輪を指にはめる。その姿を見た瞬間、胸がいっぱいになった。僕たちは抱き合った。あのときの温もりを忘れることなんて……。
「……」
目を開ける。薄暗い部屋の中で、僕は天井を見つめた。
今になって思えば、僕は単純すぎたのだと思う。クロエは僕という人間ではなく、貴族だった僕が好きだったんだ。そう考えれば、全部納得できる。貴族ではなくなった僕には、もう彼女にとって無価値だった。
「馬鹿だな、ほんと」
僕は自嘲するように笑った。2人で家庭を持って、穏やかに暮らす。そんな未来を、本気で信じていた。
「どうして……、あんな奴のことを好きになったんだよ」
僕は目元を拭った。
「どうして、まだ未練なんて持ってるんだよ……」
クロエは僕を捨てた。ルーカスを選んだ。僕をあざ笑った。
「クロエのことは忘れろ!」
僕は自分自身に言い聞かせる。断ち切るんだ。もう、あの女を好きでいてはいけない。何度も言い聞かせていると、いつの間にか眠たくなっていた。泣き疲れていたのだと思う。
「殺せ、殺せ、殺せ……」
耳元で、誰かがそうささやいた気がした。けれど僕は、そのまま深い眠りへ落ちていった。そして目を覚ましたとき僕は……。




