第5話 婚約者に捨てられた日
僕はクロエに向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
ダンジョンの中で、何度も彼女のことを考えていた。生きて帰れたら、まずクロエに会いたい。無事だったことを確認したい。そして僕が無事だったことを伝えたい。
そして、再会を祝して抱き合って……。
そう思っていた。
「クロエ……、ずっと君のことを――」
「触らないで」
クロエは僕の手を避けた。その声は、僕が知っているクロエのものとは思えなかった。とても冷たいものだった。僕を見る目にも、喜びや安心なんて一切ない。むしろ僕が生きていることを、不快そうに見ていた。
「私はもう、あなたの女じゃないの」
「……何を言ってるんだ?」
「だってルーカスと結婚したんだから」
「え?」
頭の中が真っ白になった。結婚という言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……ダンジョンから戻ったら、僕と結婚するって」
僕は震える声で言った。自分の左手を見る。そこには、クロエからもらった婚約指輪がある。決して夢ではなかったはずだ。ダンジョンの中でも何度もこの指輪を見た。見るたびに、生きて地上へ戻ろうと思った。
クロエに会うために。一緒に幸せになるために。なのに……。
「知らないわよ。そんなの」
クロエは淡々と言ってため息をついた。
僕は首を横に振った。クロエに手を伸ばす。だってこんなの、現実なわけがない。信じられない。信じたくない。
「僕たちは一緒に幸せになるって――ッ!?」
ドスッ!
「ぐは……っ!」
僕の腹に強烈な衝撃が走った。
体がくの字に折れる。息ができない。何が起きたのか分からず顔を上げると、目の前にルーカスが立っていた。ルーカスは冷たい目で僕を見下ろしていた。
「俺の女に気安く触るな」
クロエがルーカスにしなだれるように寄り添う。ルーカスはそんなクロエの腰に手を回した。そして立ち上がれない僕を見下ろして、二人は鼻で笑った。
僕の婚約者だったクロエ。僕が命を懸けてでも守りたいと思っていたクロエ。もう彼女は、僕の知るクロエではなかった。
「あなたの指輪、売ったけどはした金にしかならなかったわ」
僕はクロエの左手を見た。薬指には、僕の知らない指輪があった。僕がクロエのために用意した婚約指輪ではない。見たこともない大きな装飾が輝いていた。
「ルーカスからもらった結婚指輪よ。ミスリル製なの」
僕は言葉を失った。
「俺はこの貧乏庶民とは違う。家柄。才能。財力。ノアにはないものを、このルーカス様は全部持っている」
「……あぁ、さすがルーカス。大好き」
クロエとルーカスがお互いを見つめ合う。2人の顔の距離が近づく。
「やめてくれ……」
僕の声は震えていた。2人は僕の目の前で唇を重ねた。頭の中が真っ白になる。これは何かの間違いだ。そう思いたかった。
「ふざけるな……」
僕は震える足で立ち上がった。2人を引き離そうと手を伸ばす。
「ふざけるな!」
そう叫んだ瞬間、今度はルーカスに腹を蹴られた。
ドゴッ!
僕は地面に転がった。
「ぐっ……!」
痛い。体を動かすことさえできない。顔を上げると、そこには剣を抜いたルーカスが立っていた。冷たい刃が、僕へ向けられる。
「お前みたいなゴミが、クロエと付き合えただけでも奇跡だったんだよ」
胸が痛かった。腹を殴られたり蹴られたりする痛みより、ずっと痛い。
「いつもみたいに本に書いとけ。クロエに振られた日付をよ」
「……」
そうか、僕は振られたのか。痛みと共にその現実が体に染み渡る。
「って、お前。泣いてんじゃねえか。ギャハハハハ!」
頬に手を当てる。濡れていた。いつの間にか、涙が流れていた。それを見たルーカスたちが笑っている。リリーも。シャルロットも。オリバも。クロエまで。
誰も僕を慰めたり、助けたりはしない。ただ、僕を見て腹を抱えて笑っている。
「……死んだ方がマシだった」
僕は小さく呟いた。
「さっさと消えろ、カス」
ルーカスが吐き捨てる。
そしてクロエとルーカスは、僕の存在なんて最初からなかったかのように、もう1度唇を重ねた。
「見たいなら見ててもいいわよ、ノア」
クロエは唇の端をつりあげて笑った。
「これが本物のキスよ」
二人は濃厚なキスをする。
「昼間っからお熱いねぇ」
「人前でよくできるよ」
「結婚式の予行演習か?」
武闘家のリリー、魔法使いのシャルロット、タンクのオリバ。それぞれが適当なことを口走っていた。
「……」
自分でもこの気持ちをどう表現していいのか分からない。今までに経験したことのない絶望だった。ただ何も言えず、涙を流すことしかできなかった。なんて情けないんだ、僕は。
「おい、いつまで見てんだよ、ド変態が。満足したら、さっさとこの街から出て行け」
僕は立ち上がった。まだ足が震えている。
僕は左手の婚約指輪を見つめた。ずっと大切にしていた指輪だけど、自分の指にはめているのが気持ち悪くなった。婚約も破棄されたのだから、つけておく意味もない。
僕は指輪を外した。そして地面へ投げ捨てた。
僕は2人の前から立ち去った。
●ヒーラー・クロエ視点
「……ふふっ」
ノアが立ち去っていく背中を見ながら、私は思わず笑ってしまった。それをきっかけに、ルーカスも笑い始める。
「ギャハハハハハハハ! 腹いてぇ……」
「見た? あの顔!」
そう言って、武闘家のリリーが笑っている。魔法使いのシャルロットも口元を押さえながら、くすくすと笑っていた。
「ほんと、最後まで情けないやつ」
オリバも大きな声を上げて笑う。
「まさか本気でクロエと結婚できると思っていたとはな!」
パーティーのみんなで大笑いする。ノアの信じられないという顔も、絶望した顔も、泣きながら私の名前をつぶやく声も、全部がみんなの笑いの種でしかなかった。
「どれだけ私のことを好きだったのかしら」
私は笑いながら言った。本当に滑稽だった。私は全然好きじゃなかったというのに。ずっと一緒にいたから、ノアは勘違いしていたのだ。私の愛を本気で信じていたことだろう。自分が必要とされていると思いこみ、さぞ気持ち良かったはず。
「……かわいそうな人」
そう言いつつも、同情なんてしていない。むしろ私は、すっきりしていた。危うく、庶民と結婚するはめになっていたのだから。
私はルーカスの腕にそっと自分の腕を絡める。
「今日はノアの追放記念だ、飲むぞ!」
ルーカスが言った。その場に残されたノアの指輪には、もう目も向けなかった。




