第18話 神に選ばれたシスター
●シスター・メアリー視点
朝。教会の鐘が鳴るよりも少し早く、私は目を覚ました。窓の外はまだ薄暗い。夜の名残が空をおおっている。私はベッドから起き上がると、胸の前で両手を組んだ。
「今日も、どうか皆さんが健やかに過ごせますように」
それが、毎朝の習慣だった。祈りを終え、白い修道服へ着替える。鏡の前に立ち、乱れていた髪を整える。最後に、自分の顔を見る。少し疲れているようにも見えるけれど、今日も笑顔でいよう。教会を訪れる人たちは、私の表情を見て安心するのだから。
静かな教会の中を歩き、礼拝堂へ向かう。扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れた。私は箒を手に取る。床を掃き、長椅子を一つずつ拭いていく。祭壇に積もったわずかな埃を払い、燭台を磨く。これを私は毎日繰り返している。
他人は真面目だと言うけれど、私はこの時間が好きだった。誰もいない礼拝堂は静かで、余計なことを考えなくていい。朝の光が少しずつ窓から差し込み、ステンドグラスを通った光が床に色を落としていく。赤。青。黄色。その光を眺めていると、世界の神秘を感じざるを得ない。
掃除を終える頃には、教会の外から人の声が聞こえ始めていた。朝食の時間だ。厨房へ向かうと、子供たちがすでに集まっている。
「シスター・メアリー、おはよう!」
元気な声が飛んでくる。
「おはようございます。皆さん、ちゃんと顔を洗いましたか?」
一斉に視線が逸れた。
「……洗ってない子が何人かいますね」
「だって寒いんだもん!」
「寒くても顔は洗いましょうね」
私は笑いながら、一人ずつ頭を撫でていく。朝食を配り、食器を並べる。パンを落としてしまった子には新しいものを渡し、食べるのが遅い子には急かさず付き合う。食事が終われば、今度は怪我をした子の手当てをする。
「シスター、ここ痛い」
「見せてくださいね」
今朝転んでしまったという。膝にできた小さな擦り傷へ治癒魔法をかける。淡い光が傷口を包み、血が止まっていく。
「ほら、もう大丈夫ですよ」
「ほんとだ! 痛くない!」
子供が嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、こちらまで嬉しくなる。
「ありがとうございます!」
昼になると、教会を訪れる人が増える。怪我をした冒険者。病気の家族を抱えた女性。夫を亡くした老人。仕事がなく、今日の食事にも困っている青年。私は一人ずつ話を聞いた。治癒魔法が必要ならヒールをかける。食事が必要なら教会の備蓄を分ける。話を聞いてほしいと言われれば、時間の許す限り耳を傾ける。
「ありがとうございます、シスター」
「いえ。どうかお大事になさってください」
「あなたは本当に優しい方ですね」
そう言われるたび、私は微笑んだ。
「私は神に仕える者ですから」
それは、偽りではなかった。私は本当に、神に仕えている。私の命を救ってくださった御神に。だから私は、困っている人を見捨てない。誰かが苦しんでいるなら手を差し伸べる。泣いている子供がいるなら、その涙を拭う。傷ついた人がいるなら、治してあげる。それが、私にできる恩返しだと思っている。
夕方になり、最後の信者を見送る。
「また明日、お願いします」
「はい。いつでもお待ちしています」
扉が閉まる。教会の中が静かになる。子供たちもそれぞれの部屋へ戻り、神父様も自室へ向かった。
私は一人で礼拝堂に残った。祭壇の前に立つ。昼間は人が行き交う場所だが、夜になると別の場所のように感じられる。私はいつものように跪いた。胸の前で手を組む。
「今日も無事に一日を終えることができました。ありがとうございました」
目を閉じる。静寂が広がる。私はその静寂が好きだった。けれど私には、他の人には知られていない秘密がある。私は、神と話すことができる。
『メアリー』
声が聞こえた。私はすぐに目を開いた。
「はい。御神」
誰もいない。けれど、確かに聞こえる。私だけに聞こえる声。幼い頃から、何度も聞いてきた声。私は昔、神なんていないと思っていた。
幼かった頃、この世界は私にとって地獄だった。住んでいた場所は魔物に襲われ、家も焼けた。家族もみんな殺された。私だけは逃げきれた。逃げる途中で食べるものを失い、何日もまともな食事を取れなかった。季節は冬で、すごく寒かった。それに一人は怖かった。誰かに助けてほしかった。何度も祈った。
「神様、助けてください」
けれど、何も起こらなかった。誰も来なかった。私は何度も祈った。声が枯れるまで祈った。それでも、神は現れなかった。
「……神様なんて、いないんだ」
そう呟いた夜を、今でも覚えている。もう何も期待していなかった。神などいない。世界は理不尽で、人は自分の力で生きるしかない。そう思った。でももう、私に生きる力は残っていなかった。このまま死んでしまおうと思った。そんな私に、声が聞こえた。
『生きなさい』
最初は幻聴だと思った。けれど、声は何度も聞こえた。
『立ちなさい』
私は言われるままに立った。
『歩きなさい』
私は歩いた。そうして辿り着いた場所が、この教会だった。そこで私は保護された。食事を与えられた。温かい寝床を与えられた。服を与えられた。そして初めて知った。私は見捨てられていなかったのだと。神は私を見ていた。私が神を信じられなくなっていた時でさえ、神は私を見捨てていなかった。
だから私はシスターになった。
御神に仕えるために。救っていただいたこの命を、御神のために使うと決めた。
「御神。本日はどのような御用でしょうか?」
しばらく沈黙があった。やがて、声が響く。
『ノア・エヴァンス』
その名前を聞いた瞬間、私は静かに目を伏せた。昨日やってきた冒険者だ。汚れた服装で教会に現れ、私は浄化魔法を施した。そして食事を与えた。
『あの者は時間を遡った』
私は胸の前で組んだ手に、僅かに力を込めた。神によると、あの青年は世界の時間を逆行、すなわち過去へ戻り、自分の死をなかったことにしたという。
『あの者は異物だ。存在してはならぬ』
私は静かに頷いた。それはつまり、殺せという命令だった。
「……はい。承知しました」
迷いはない。だって御神の言葉なのだから。
「私が、ノア・エヴァンスを殺します」
『あの者を殺せば、お前を大天使へと引き上げよう』
私は目を見開いた。
「大天使……」
御神の最も近くに仕える存在。人間として生きる私には決して届かない場所。けれど、御神は約束してくださった。ノア・エヴァンスを殺せば、私は大天使になれる。
「本当、なのですか?」
『約束しよう』
その言葉を聞いて胸の奥が熱くなった。嬉しかった。けれど、それ以上に感じたのは使命感だった。私が救われた意味がある。私の命には役割がある。
「ありがとうございます、御神」
私は深く頭を下げた。
「私の命は、あの日に御神からいただいたものです。ならば、この命は御神のために使います」
『ウァサゴとオロバスをそちらへ向かわせよう』
その声を最後に、神の気配が消えた。私はしばらく祭壇を見つめていた。
数日後。
私は礼拝堂の奥へ歩いていく。
普段は誰も使わない扉。その鍵を取り出し、開く。扉の向こうには地下へ続く階段がある。私はろうそくを手に取り、階段を下りていく。地上の教会とは違い、地下には冷たい空気が漂っている。
一般の信者には決して知られていない地下聖堂。大きな祭壇。その周囲には古い聖具が並び、壁には見慣れない文字が刻まれている。私は祭壇の前まで歩く。
「お待たせしました」
すると、暗闇の奥から声が返ってきた。
「遅かったですね、シスター・メアリー」
「今日は特に忙しかったんです」
私は顔を上げる。闇の中から、一人の男が姿を現した。人間ではない。鋭い角。異形の瞳。そして、隠しきれないほど濃密な魔力。彼の姿を見ても、私は恐怖を感じない。彼は私の部下なのだから。
「ウァサゴ。結論から話してください」
「申し訳ありません。オロバスが失敗しました」
「そうですか。それはつまり、あなたの失敗。そしてあなたの失敗は、私の失敗」
ウァサゴの口元が僅かに歪む。そして自分の右腕を見た。
「私は確かに、あの男の心臓を貫いたのですが」
「時間を遡るのは分かっていたことでしょう?」
「返す言葉もございません」
私は祭壇へ視線を向ける。
「御神は、ノア・エヴァンスを異物と仰いました」
「今度こそ確実に」
私は首を横に振った。
「いいえ」
「……殺さないのですか?」
私は微笑む。ゆっくりとウァサゴを見る。
「殺しますよ。ですが、まだ急ぐ必要はありません」
「なぜです?」
ウァサゴが尋ねる。
「ノア・エヴァンスは、何も知りません。自分がなぜ狙われているのか。なぜ異物扱いされるのか……」
ウァサゴは黙った。
「しばらく監視してください」
「私に監視を?」
私は頷く。
「はい。彼が何をするのか見ていてください。誰と接触するのか。どこへ向かうのか。そして、彼のスキルである『記録』と『改稿』について、新しい情報を掴んでほしいのです」
ウァサゴが頭を下げて消える。
私は再び祭壇へ向き直る。御神から与えられた使命。私を救ってくださった御神から与えられた、これ以上ない大切な使命。
「ノア・エヴァンスを殺せば、大天使になれる」
その言葉を口にすると、不思議と心が落ち着いた。
「必ず成し遂げます」




