第17話 奴隷契約
実家に戻った。
といっても、かつてエヴァンス家が所有していた屋敷は、もう僕たちのものではない。広い庭も、使用人たちが行き交っていた廊下も、客人を迎えるための応接室も、今ではすべて他人のものだ。
僕の家族が暮らしているのは、領都から少し離れた場所にある小さな家だった。貴族だった頃の面影なんて残っていない。それでも、玄関を開けると見慣れた両親の姿があった。
「おかえり、ノア」
父さんも母さんも、僕の顔を見るなり安堵したように笑った。
エヴァンス家が没落した最初のきっかけは、数年続いた凶作だった。畑から収穫できる作物が目に見えて減り、領民たちの生活は苦しくなっていった。父さんは領主として、備蓄していた食料を放出した。でも、それでも足りなかった。
そこで父さんは自分の財産を使って他領から食料を買い集め、領民へ配った。貴族としての体面を守るためじゃない。目の前で飢えている人たちを見捨てられなかっただけだ。ところが、凶作が終わる前に今度は魔物の大量発生が起きた。
街道は危険になり、農村にも魔物が出没するようになった。父さんは冒険者や傭兵を雇って討伐を依頼し、それでも足りない場所には自分自身も兵を率いて向かった。討伐費用は莫大だった。領民を守るために使った金は、少しずつエヴァンス家の財産を削っていった。それでも父さんはやめなかった。
そこで最後の賭けとして始めたのが鉱山開発だった。領内の山で新しい鉱脈が見つかる可能性があるという話を信じ、多額の資金を投じた。成功すれば、これまでの損失を取り戻せる。領民の生活も立て直せる。そう考えたらしい。けれど、結果は失敗だった。期待していたほどの鉱石は採れず、投資した金だけが消えた。
借金まで抱えることになり、ついに屋敷を売却することになった。それでも足りず、エヴァンス家は爵位を返上した。父さんは鉱山への投資だけは後悔している。判断を誤ったからだ。けれど飢えていた領民へ食料を渡したことも、魔物から領民を守ったことも、一度も後悔していない。僕にとってはそれで十分だった。
「それで、ノア。クロエさんとの結婚式は、いつ頃になるんだ?」
父さんが口を開く。その言葉に、隣にいたクロエの肩がぴくりと揺れた。
「結婚はしないよ」
「……は?」
父さんが固まった。母さんも目を丸くしている。クロエは俯いたまま、何も言わない。
「もう僕たちは婚約を解消してるから」
父さんと母さんが同時にクロエを見る。クロエはゆっくりと顔を上げた。
「お父様、お母様。申し訳ございません」
突然、クロエが深々と頭を下げた。
「私は、ノア様を裏切りました」
僕の両親は言葉を失う。
「私はノア様が死ぬと分かっていながら、見捨てようとしました。本当に、申し訳ございません」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。何を言っているの?」
母さんが困惑した声を上げる。クロエは顔を上げない。
「私はもう、ノア様の婚約者ではありません。妻になる資格もありません。だから……私は、ノア様の奴隷として生きようと思います」
「…………」
家の中が静まり返った。
「奴隷?」
父さんが聞き返した。
「はい」
「どういうことだ、ノア」
父さんの視線が僕へ向く。まあ、そうなるよな。僕は少し考えてから答えた。
「奴隷っていうのは置いといて、僕が勇者パーティーに裏切られて死にかけたのは事実。だからもうパーティーを抜けてきたよ。クロエには、アミスの面倒を見てもらおうと思う」
アミスは僕の妹だ。今は寝たきりの状態となっている。
「ごめん。とりあえず、そういうことだから」
父さんの眉間に深い皺が刻まれた。説明を求めているのは分かる。でも、今はそれより先にやることがある。
「アミスの顔が見たいんだ」
そう言って廊下を歩く。
小さな家の奥にある部屋。その扉を開けると、ベッドの上に妹がいた。以前よりも痩せている。僕が近づくと、妹は僅かに目を動かした。
「ただいま」
返事はない。声を出すことも、身体を起こすこともできない。ただ、僕の方を見ている。
「元気だった?」
そんなことを聞いても返事がないことは分かっている。それでも、僕は妹の手を握った。冷たい。細い指が、僕の指に触れる。
「……クロエ。アミスの世話を頼みたい」
背後にいた彼女を呼ぶ。
「はい、もちろんです」
「父さんも母さんも仕事がある。使用人を雇えるほど余裕もない」
「何でもやります。食事も、身体を拭くことも、着替えも、薬の管理も。必要なら一晩中付き添います」
「ありがとう。よろしく頼む」
「ただし」と言って僕はクロエを見る。
「アミスに何かしたら、僕は君を絶対に許さない」
「はい。ノア様のご家族を傷つけるようなことは絶対にしません」
クロエは僕を真っ直ぐ見つめた。
「私はもう二度と、ノア様を裏切りません」
その瞳には、以前のクロエにはなかったものがあった。恐怖だけじゃない。決意。そして、僕には少し理解しづらいほど強い執着。
「私は心からノア様を愛しています」
クロエは胸元へ手を当てた。
「身も心も、この心臓もノア様のものです」
そこまで言って、クロエは一度だけ息を吸った。
「ですから、契約をしてください」
「契約?」
と、僕が聞き返す。
「奴隷契約です」
奴隷契約にはいくつか種類がある。その中でも最高位の契約なら、主人への命令違反に対して生命そのものを担保にできる。つまり、僕が命令し、クロエがそれに逆らえば死ぬ。
「そこまでしなくてもいいと思うけど」
「夢の中で、ノア様は私を助けるために左腕を失いました」
「夢でしょ」
「夢ですが、夢じゃないような気がするんです」
クロエの声が震える。
「ノア様を何度も傷つけました。だから奴隷契約がふさわしいんです」
僕はしばらくクロエの顔を見た。正直、そこまでして僕に従う理由が分からない。けれど、確実に妹の世話をしてくれるなら都合がいい。治癒魔法が使える人間は、この家にとって貴重だ。僕は頷いた。
「死ぬかもしれないよ」
「構いません」
クロエは微笑んだ。
「ノア様に必要としていただけるなら、それで十分です」
「分かった。契約しよう」
その瞬間、クロエの表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます、ノア様」
魔力が床に広がる。奴隷契約の術式が展開され、複雑な文字列が二人の間を走った。僕は契約内容を確認する。主人は僕。奴隷はクロエ。命令への絶対服従。契約違反時には生命活動を停止する。解除権は主人にのみ存在する。
僕が最後の承認を行うと、術式が淡い光を放った。契約が成立した。
クロエは自分の胸に手を当てた。
「これで、私は完全にノア様のものです。はぁ……、はぁ……」
クロエは少し息が上がっている。顔も赤い。なんだかちょっと怖かったから、僕は返事をしなかった。
それより今の僕にとって重要なのは、魔族について調べることだ。僕を殺した、正体不明の魔族、ハイデーモンについて。
僕は父さんの書斎へ向かう。昔、そこには魔族について書かれた分厚い本があった。今度こそ、あの腕の正体を突き止める。僕の心臓を貫いて殺した存在が何者なのか。そして、なぜ僕の時間遡行を妨害しようとしたのか。その答えを探すために。




