第16話 ノア様の奴隷にしてください
●ヒーラー・クロエ視点
頭の奥が、びりびりする。
目を閉じると、昨日見た夢が鮮明に蘇ってくる。あれは夢だった。そう思っていた。けれど、あまりにもリアルだった。血の匂い。肌を撫でる熱風。耳をつんざくような魔力の轟音。
そして、その中心にいたノア。
ノアが魔族と戦っていた。炎を放ち、氷を生み出し、風の刃を振るう。その姿は、私の知っているノアとはまるで違っていた。自信に満ちていた。迷いがなかった。誰かに守ってもらう人ではなく、誰かを守る人だった。私は、その姿から目を離せなかった。
そして私は、ノアに守られた。私を狙った攻撃の前にノアが立ちふさがった。次の瞬間、左腕が切り落とされた。血が舞った。それでもノアは止まらなかった。自分の腕を失ったことなど気にしていないように魔族へ向かい、剣を振った。何度も。何度も。魔族を斬り、切り刻み、最後には完全に葬り去った。
それから、邪龍を土に埋めていた。さっきまで命を奪っていたとは思えないほど優しい手つきだった。最後に小さな墓標を置く。その横顔が、とても悲しそうだった。私は、その姿を見て胸が締めつけられた。
そして、その後。
「…………」
思い出せない。そこから先が、何者かに切り取られたように抜け落ちている。何度思い出そうとしても、何も出てこない。ただ、目が覚めてからずっと頭の奥がびりびりする。胸の奥も落ち着かない。私はどうして、あんな夢を見たのだろう。
そして今日。
「僕は勇者パーティーを抜ける」
ノアは突然、そう言った。私は驚いた。けれど、それ以上に胸がざわついた。
「僕を深淵の監獄に置き去りにするなんて、面倒なことをする必要はない」
「…………!」
息が止まった。ノアは知っている。私たちがこれから何をしようとしているのか。まだ何も起きていない。まだ、ノアを深淵の監獄へ置き去りになどしていない。なのにノアは全部知っている。どうして?
頭の中で、昨日の夢が蘇る。
私を守ったノア。
左腕を失ったノア。
魔族を圧倒したノア。
邪龍を弔ったノア。
そして今、目の前にいるノア。
私たちの裏切りを知っているのに、怒っていない。怯えてもいない。ただ、私たちを見下ろすような静かな目をしている。
「クロエ、ルーカスとお幸せに」
「…………」
胸が、大きく跳ねた。ドクン。
恨み言すら言わない。
ただ私を切り捨てる。その姿が、昨日の夢のノアと重なった。怖い。なのに胸が熱い。心臓が、さっきからずっとドキドキしている。
何なのこの感情は。
私はノアを見つめた。自信に満ちた顔。揺るがない瞳。私たちの未来すら知っているような余裕。勇者ルーカスとは比べ物にならない。
今までのノアとは、まるで別人だった。もしかしたらこれが本当のノアなのかもしれない。私が知らなかっただけで、これが本当のノア。
私は、そんなノアから目を離せなくなっていた。
ノアは自分の料金分だけをテーブルへ置いた。そして、そのままレストランを出ていく。
「…………」
私も椅子から立ち上がる。今、私がついて行くべきなのは誰なのか。答えは決まっていた。
ノア様。
「……ノア様?」
自然と、その呼び方が口から出た。どうして「様」なのだろう。私自身にも分からない。
でも間違っていない気がした。昨日の夢で、私はノアに一度捨てられた気がする。なのにそのあと命を救われた。そして今日も、私はノアに捨てられようとしている。それでも私は、ノアを追いかけたいと思っている。私の身体が、そう望んでいる。頭で考えるより先に、体が動いていた。
「私もパーティーを抜けるから」
「は?」
ルーカスが間の抜けた声を出す。
「お前まで何言ってんだ、クロエ」
私はルーカスを見た。以前なら、この人の言葉を聞いていた。勇者だから。強いから。私を幸せにしてくれると思っていたから。今は違う。
「あなたじゃ物足りないの」
「は?」
「ミスリル製の指輪も必要ないわ」
私は自分の指を見る。きらりと光るノアとの婚約指輪。これを売ろうとしていただなんて、私はなんてバカだったのだろう。
「私は、ノア様のために生きる」
「クロエ、お前……!」
ルーカスの声を背中に受けながら、私はレストランを飛び出した。外へ出る。
見つけた。少し先を歩いているノア様の後ろ姿。
「…………」
その姿を見ただけで、心臓が跳ねた。ドクン、ドクン。まただ。胸が苦しい。なのに、嬉しい。私は走る。
「待って……」
ノア様。ノア様。ノア様。
頭の中で、その名前だけが何度も繰り返される。どうして、どうして私は、こんなにもこの人を求めているの?
「待ってください! ノア様!」
「……!?」
ノア様が振り向いた。驚いた顔。
私は息を切らしながら、ノア様の前へ駆け寄った。
「私もパーティーを抜けました」
「…………」
「どこまでもお供します」
ノア様は黙って私を見る。何かを考えている。その視線だけで、身体が熱くなる。
「断る」
「…………」
胸を突き刺されたようだった。涙が出た。
でもここで引き下がるわけにはいかない。私は、ノア様を裏切ろうとした。自分から捨てようとした。その報いを受けなければならない。たとえ夢だとしても、私にそんな気持ちがあったのは事実。裏切ろうとしていたのは事実。でも私はまだ、ノア様の婚約者であることに変わりはない。
「私を……、ノア様の奴隷にしてください」
「…………は?」
ノア様の顔が、完全に困惑している。それでも私は頭を下げた。
「必ずお役に立ちます」
「いや……」
「身の回りのお世話でも何でもやります」
「…………」
「料理もします。掃除もします。足置きにでもなります」
言葉が止まらない。周囲の人間が何事かと集まり始める。それでもいい。今は、ノア様のそばにいたい。
ノア様に必要とされたい。
ノア様の役に立ちたい。
そのとき。
ノア様の手が私に触れた。
「…………っ」
身体が震えた。ただ触れられただけ。それだけなのに。
「あああああああああああっ!」
「変な声を出すな」
「す、すみません……」
恥ずかしい。けれど嬉しい。触れてもらえた。それだけで胸がいっぱいになる。私はもうこの人から離れられない。
●ノア視点
僕はクロエを抱えて、屋根の上を高速で移動していた。地上を歩くより、こっちの方が早い。本当なら置いていこうと思った。
けれど、少し考えてやめた。
病気の妹の面倒を見させよう。クロエはヒーラーだ。多少は役に立つかもしれない。
「…………」
それにしても、奴隷にしてくださいって、なんだよ。
「ノア様。私、ドキドキが止まりません」
「そりゃ、この高さだから」
クロエがずっと僕の顔を眺めている。なんだよ。気持ち悪い。
僕は前を向いたまま口を開く。
「クロエ、なぜ急に僕を様付けで呼ぶ?」
「変な話ですが、私にもよく分かりません。ただ……」
クロエは少しだけ考える。
「昨日、ノア様に助けられる夢を見たので」
「夢?」
「はい」
僕は黙って考えた。夢だと思っているらしい。僕の【改稿】も完璧ではないということか。時間を遡ったことによって何かがクロエの脳内に残っているのだ。記憶。感情。経験。それらが夢という形としてクロエの中に残っている。
まあいい。害はない。いや、あるか……。
「夢の中でも、現実でもノア様と一緒にいられて、クロエは幸せ者です」
「言っておくけど、僕はもう君を愛していない」
「それでも構いません」
「…………」
即答だった。
「ノア様の横顔が見られるだけでもいいのです」
「…………」
別人だな。以前のクロエとは、まるで違う。僕を捨てようとしていた女が、今では奴隷にしてくれと言ってくる。
鬱陶しいけれど、使えるなら使う。それだけだ。
前方へ視線を向ける。目指す場所は決まっている。実家のある領地。父の書庫。魔族について調べる。あの腕の正体を突き止める。
実家のある領地へ向かって速度を上げた。




