第14話 私のすべてを、ノア様に
●ノア視点
オロバスを倒したあと、僕はしばらくその場から動けなかった。右手に握った剣を下ろし、ゆっくりと周囲を見渡す。地面には、切り刻まれた魔族オロバスの残骸。そして、その少し先にはタッツンが倒れていた。
「…………」
僕は何も言わず、タッツンのもとへ歩いていく。一歩ずつ近づいていくたびに、その大きな身体の傷がはっきりと見えてくる。鱗には無数の傷が刻まれ、腹には血がこびりついている。
僕は膝をついた。
そして、腹の毛に触れた。
「…………」
ふわふわしている。あのときと同じ感触だった。なのに、温かくない。指を埋めても、撫でても、身体は動かない。呼吸もない。あの、間の抜けた鳴き声も聞こえない。
「タッツン」
呼んでみるも返事はない。僕は腹の毛を撫で続けた。涙が落ちた。タッツンの毛に吸い込まれていく。
「これから先も……、ずっと一緒だと思ってたのに」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
けれど僕は、そこで気づいた。
「……待てよ」
涙を拭う。頭の中に、ひとつの可能性が浮かんだ。
「タッツンが死ぬ前まで戻れば、生き返らせれるんじゃ……?」
そうだ。僕は時間を遡っている。過去へ戻ることができる。なら、タッツンが死ぬ前に戻ればいい。死ぬという出来事そのものを、なかったことにすればいい。
それだけの話だ。
僕は本を開いた。
「僕ならできる」
ページをめくる。タッツンの記録を探す。あった。その中にある【死亡】という情報。僕は迷わずペンを出した。
「これを書き換えれば……」
けれど。
【改稿不可】
一瞬、意味が分からなかった。書き換えようとすると、この四文字が表示された。僕はその言葉を凝視した。
「なんでだよ」
指先が震える。
「なんでリライトできないんだ……」
何度やっても。何度願っても。返ってくるのは、同じ四文字だった。
【改稿不可】
「……クソ」
小さく吐き捨てて本を閉じた。
時間を戻せても。世界を書き換えられても。自分の運命すら変えられても。死んだ存在だけは戻せない。その事実が重く胸に落ちた。
僕は右手をタッツンへ向ける。
「火よ」
指先に、小さな炎が生まれた。揺らめく赤い光を、僕は黙って見つめる。この炎で敵を焼き尽くしてきた。熱と轟音を撒き散らし、目の前にあるものを灰へと変えてきた炎だ。
この炎を、タッツンのために使う。
僕は手をゆっくりと動かした。
炎が地面を這うように広がり、やがてタッツンの巨大な身体を包み込んでいく。赤い光が鱗の隙間から覗き、パチ、パチ、と乾いた音が静かなダンジョンに響いた。
鱗が焼け、煙が立ち上る。
大きな身体が、少しずつ形を失っていく。
「…………」
僕は何も言わず、その光景を見つめていた。
炎が揺れる。その向こうで、タッツンの姿が少しずつ小さくなっていく。やがて、燃え盛っていた炎が弱まり、最後の火の粉がふっと消えた。
静寂が戻る。
そこに残っていたのは、いくつもの骨だった。僕は一つずつ拾い始めた。両手でそっと拾い上げていく。
僕は集めた骨を抱え、ダンジョンの隅へ向かった。
できるだけ人目につかない場所を選ぶ。誰かに見つけられて、荒らされるような場所にはしたくなかった。
地面に膝をつく。手で土を掘った。できるだけ深く。誰にも荒らされないように。何度も土を掻き出して、ようやく穴ができた。
僕は抱えていた骨を、その中へ一つずつ入れていく。
最後の一つを置いたあと、しばらくその穴を見つめた。
「……じゃあね、タッツン。あのとき、僕を助けてくれてありがとう」
それから、土を被せる。骨が見えなくなるまで土を被せていく。最後に、周囲の土を手のひらで固めた。
墓標になりそうな大きな石を見つけた。その石を、土を被せた場所の前に置いた。
僕はその墓の前に座り込み、しばらく何も言わずに眺めていた。
「ノア……」
背後から、クロエの声が聞こえた。
●クロエ視点
「今までのこと、全部謝ります」
そう告げると、ノアが振り返った。その顔を見た瞬間、胸が苦しくなった。怒っているわけではない。憎んでいるわけでもない。ただ、静かな目だった。
私に何かを求めることもない。私を責めることもない。もう私には何の期待もしていないような目だった。
「…………」
私は今まで、何をしていたのだろう。
どうして、ノアを拒絶したのだろう。
どうして、あんなにも簡単にノアを捨てようとしたのだろう。
答えは分かっている。ノアが貴族ではなくなったからだ。ノアが貴族ではなくなった途端、私は彼を見る目を変えた。記録係。戦えない男。英雄パーティーのお荷物。
もう、この人は私に相応しくない。
そう思った。そしてルーカスを選ぼうとした。英雄であるルーカスなら。強いルーカスなら。皆から認められているルーカスなら。
私は幸せになれる。
私には、そちらの方が相応しい。そう思っていた。
今なら、それがどれだけ愚かな考えだったのか分かる。
「ごめんなさい」
「…………」
ノアは何も言わない。
「私が間違っていました」
言葉にした途端、涙が滲んだ。
「もう、どうでもいいよ」
どうでもいい。
その言葉は、私が思っていたよりずっと残酷だった。もう、私の言葉に心を動かされない。私が泣いても。謝っても。すがっても。ノアには関係がない。
胸の奥が、冷たくなる。
そして私は、ノアの左肩へ視線を向けた。そこには、本来あるはずだった腕がない。
「……ノアの腕がなくなったのも、私のせい」
その腕は、私を庇うために失われた。私が狙われたから。私があそこにいたから。ノアが私を守ろうとしたから。
涙が頬を伝う。
「ノアを傷つけてばかりで……、本当にごめんなさい……」
ノアは何も言わない。それでも、私は続けた。胸の奥へ押し込めていた言葉が溢れた。
「こんなの……、許されないのは分かっています。私はノアが好きです」
私は間違えていた。誰よりも優しかったノア。その優しさを、私はずっと見ようとしなかった。私はノアを見下していた。ノアを置き去りにすることに同意した。最低最悪の女。
本当に愚かだったのは私の方だ。
「どうか……。私のすべてを、ノアに捧げさせてください」
もう、何も欲しくない。貴族としての身分も。誰かに認められることも。自分自身の幸せさえも。そんなものは、もういらない。
「命も、人生も、全部ノア様に差し上げます」
それが償いになるとは思っていない。私の命を差し出したところで、ノアの腕は戻らない。過去も消えない。私が彼を傷つけた事実もなくならない。
それでも何かを捧げずにはいられなかった。
「全部、ノア様のものです!」
気づけば、そう呼んでいた。
「ノア様が望むなら、何でもします。死ねと言われれば、死にます」
ノアの傷を少しでも埋められるのなら。私の命なんて、いくらでも差し出せる。
「だから……、最後のチャンスをいただけないでしょうか。お願いします……」
「…………」
ノアは何も言わない。その沈黙を、私は拒絶だと思った。でも、それでもいい。拒絶されてもいい。
それでも私は、ノアから離れたくない。私のせいで腕を失ったノアを、今度こそ私が支えたい。今度こそ。絶対に。もうノアを見捨てない。もうノアから目を逸らさない。ノアが私を必要としなくても。ノアが私を嫌っても。私に笑いかけてくれなくても。私はそばにいたい。身勝手だけど、今はそれが私の生きる意味だから。
「不要になったら、私を殺しても構いません」
ノアに殺されるのなら。ノアの手で終わるのなら。私は、それすら幸せだと思える。
「だから……、お願い……。ノア様のそばにいさせてください……」
その瞬間だった。
ズブッ。
鈍い音がした。ノアの身体が、わずかに揺れた。
「え……?」




