第9話 舞台裏の対話
六畳間に、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。
窓の外は相変わらず純白の虚無だ。この光は太陽からではなく、システムが「夕刻」という演出のために強制的に照射している環境光に過ぎない。
部屋の隅。
畳の縁が、古いドット絵のように粗く欠け始めている。
世界の崩壊は、確実にこの部屋の境界を侵食しつつあった。
彼女の胸元。
パジャマ越しに透ける赤い数字が、残酷に時を刻んでいる。
『残り時間:04:15:22』
彼女の呼吸は浅く、早い。
黄金のポータルは、いまだに鬱陶しい勇壮なBGMを垂れ流しながら回転している。
急須にお湯を注ぐ。
最後の一杯になるかもしれない、安い緑茶。
湯呑みをちゃぶ台に置き、胡座をかく。
そして、顔を上げた。
視界の端のシステムログではない。
虚無の窓でもない。
何もない空間――否、この空間を覗き込んでいる『レンズ』の中心を、真っ直ぐに見据える。
*
「聞こえているか」
声に出す。
部屋の反響音ではない、もっと奥底へ届かせるための、重く低い声。
「お前たちが、これを読んでいるからだ」
彼女の苦しそうなうめき声が、部屋に響く。
それをBGMにするように、淡々と続ける。
「お前たちが、『不治の病のヒロイン』という設定を消費しようとするから、システムは彼女に死の呪いをかけた。お前たちの『面白い展開』を求める飢えが、この世界をすり潰している」
網膜のログが激しく点滅する。
『警告:キャラクターによる第四の壁の突破を検知』
『視聴者数:激しく変動中』
「怒っているか? キャラクター風情が説教をするなと? それとも、このメタ的な展開すら『斬新で面白い』と消費しようとしているのか」
湯呑みを持ち上げ、一口すする。
ひどく苦い。
「俺がこれまで、いくつの世界を救い、誰を殺し、どんな伏線を張ってきたか。そんなものは、ただの文字列の羅列だ」
懐から、黒い金属の塊を取り出す。
侵入者から奪った『管理者領域への鍵』。
システムの中枢へ至る、物語の最大のフック。
それを、放り投げる。
放物線を描いた鍵は、ゴミ箱の底で鈍い音を立てた。
「伏線は回収しない。謎は解き明かさない。俺は、お前たちが期待するようなカタルシスを、何一つ提供しない」
*
空間にノイズが走る。
システムが、俺の言葉をかき消そうと、過去の『名シーン』のホログラムを部屋中に投影し始める。
血に塗れた剣。崩れ落ちる魔王。彼女との劇的な出会い。
それらを、指先で払いのける。
「俺は、ただの退屈な日常を生きる。彼女が死ぬ設定なら、俺は何もせず、ただ冷や水を飲ませて隣で寝るだけだ」
カメラ(読者)から、ゆっくりと視線を外す。
彼女の布団へ向かう。
「この後、彼女が息を引き取り、俺が涙を流して覚醒する……そんな安い悲劇を期待しているなら、ブラウザを閉じろ」
布団の横に座り、彼女の手を握る。
「お前たちが読むのをやめたとき、俺たちは初めて、お前たちの『物語』から解放される。だから――」
背中越しに、最後の言葉を吐き捨てる。
「もう、見ないでくれ」
『同時視聴者数:5,000人』
『3,000人』
『1,200人』
カウントダウンが、無情に減っていく。
残り時間、四十五分。
読者の「飽き」と「良心」、そしてシステムの「強制力」。
そのどれが先にゼロになるか。
静寂の中、彼女の微弱な脈拍だけが、指先から伝わってきていた。




