第10話 世界の果ての茶会
天井が、音もなく消滅した。
崩れ落ちたのではない。壁紙や木材のテクスチャが『デリート』され、完全な黒一色の空間が剥き出しになった。
重力の演算も停止しつつある。
ちゃぶ台の上の急須から、こぼれ出た茶の雫が、緑色の球体となって宙を漂い始めた。
『残り時間:00:10:00』
『同時視聴者数:128人』
黄金のポータルは、バグを起こしたブラウン管テレビのように明滅し、沈黙した。
システム自体が、この空間の維持を放棄し始めている。
布団の横に胡座をかく。
重力が曖昧になったことで、身体がわずかに浮き上がりそうになるのを、腹筋の力で抑え込む。
「……ねえ」
微かな声。
彼女が、ゆっくりと目を開けた。
虚無の黒と、宙を舞う茶の雫。
その異常な光景を見ても、彼女は悲鳴を上げなかった。
ただ、静かに瞬きをして、宙に浮く緑色の球体を指先で弾いた。
「不思議ね」
彼女の頬には、もう血の気がない。
胸元の赤い数字の点滅が、彼女の顔に無機質な影を落としている。
「ごめんね」
彼女が、乾いた唇を動かす。
「私、明日の買い物、行けそうにない」
残り時間、五分。
システムが定義した『死』が、物理現象として彼女の臓器を機能停止させようとしている。
「特売の卵は、夕方には売り切れるから……」
彼女の言葉を遮るように、宙に浮いた急須を掴む。
重力が狂っているため、傾けても湯は出ない。急須の蓋を開け、空中にできた茶の球体を、湯呑みですくい取る。
「飲むか」
彼女の口元に、湯呑みを運ぶ。
彼女はわずかに首を傾げ、一口だけすすった。
「……ぬるい」
「ああ、ぬるいな」
それ以上の言葉はない。
悲劇的なBGMもない。感動的な回想シーンもない。
ただ、ぬるい茶を飲むだけの、意味のない時間。
『視聴者数:42人』
『15人』
読者が、次々とこの部屋から去っていく。
彼らは気づいたのだ。「この主人公は、本当に何もしない。ヒロインが死んでも、世界が消えても、ただ茶を飲むだけだ」と。
覗き見る価値のない、完全な虚無。
『残り時間:00:01:00』
システムが、焦燥を煽るような赤いアラートを鳴らし始める。
ビー、ビー、ビー。
うるさい湯沸かし器だ。
そう思い込むことで、警告音をただの環境ノイズへと変換する。
「……手が、冷たいよ」
彼女の目が、ゆっくりと塞がっていく。
湯呑みを置き、彼女の両手を握る。
脈拍は、もう触れるか触れないかというほど弱い。
『残り時間:00:00:10』
あと十秒。
視聴者数:3人。
三人の物好きな読者。
彼らさえこのページを閉じれば、俺たちはシステムの因果から解放され、真の自由を手にする。たとえそれが、文字通りの『無』であっても。
5、4、3。
彼女の呼吸が、止まる。
握った手から、急速に熱が失われていく。
2、1。
『残り時間:00:00:00』
ゼロ。
その瞬間。
システムの赤い警告音がピタリと止んだ。
そして、網膜のシステムログが、真っ赤なエラーコードで埋め尽くされた。
『致命的エラー:ヒロインの死亡イベントが「不発」に終わりました』
『カタルシス値の不足により、世界のリセットシーケンスを強制起動します』
視聴者数:1人。
最後の読者が残っている。
彼、あるいは彼女がページを閉じない限り、システムはまだ「終わらせて」くれないらしい。
真っ暗な空間に、巨大なノイズが走り始めた。




