第8話 システムからの強制発注
咳の音が、静寂を切り裂いた。
コン、という軽いものではない。
肺の底から泥を吐き出すような、湿った、重い音。
彼女が布団の中で丸まり、口元を押さえている。
指の隙間から、赤い飛沫が畳に散った。
その瞬間。
彼女の青白い肌の上に、血管のような赤い光が網目状に走った。
『システムアップデート:ヒロインに「死の呪い」を追加』
『緊急クエスト発生:世界樹の霊薬を入手せよ』
網膜のログが、狂ったように点滅を始める。
『悲劇的展開』『同時視聴者数:1,000,000人――急増中』
「キタキタ」「急展開!」「主人公、覚醒しろ!」
コメント欄が、熱を帯びた文字列で埋め尽くされる。
読者が戻ってきた。
「ヒロインの不治の病」という、最も安直で、最も効果的な劇薬に群がる蝿のように。
彼女が、血に濡れた唇を震わせる。
「……痛いよ」
システムによって強制的に書き込まれた「痛み」。
彼女の瞳が、救いを求めてこちらを見上げる。
*
部屋の中心。
空間が歪み、黄金の光を放つポータルが出現した。
荘厳なコーラスのBGMが、どこからともなく鳴り響く。
『クエストナビゲーション:霊薬のあるダンジョンへ転送します』
光の矢印が、ポータルを指し示している。
剣を取り、ここへ飛び込めば、再びあの狂った英雄の物語が始まる。
視聴者は喝采し、この世界は存続するだろう。彼女の命も救われる。
そして俺たちは、永遠に消費され続ける。
立ち上がる。
ポータルを一瞥する。
そして、その横を通り抜け、台所のシンクへ向かった。
BGMが、一瞬だけ音程を外したように聞こえた。
蛇口をひねる。
冷たい水で、百円ショップで買った薄いタオルを濡らし、固く絞る。
布団に戻る。
彼女の額に、濡れタオルを乗せる。
血で汚れた口元を、ティッシュで淡々と拭き取る。
「……行かない、の?」
彼女が、かすれる声で尋ねる。
「ただの風邪だ。寝ていれば治る」
ポータルが、激しく明滅し、自己主張を強める。
だが、俺は背を向けたまま、安物の電子体温計を彼女の脇に挟んだ。
『視聴者数の停滞を検知』
「え?」「何してんの?」「早く行けよ」「クソ展開」
伝説の霊薬ではなく、ただの水道水と体温計。
期待を完全に裏切られた視聴者の熱が、急速に冷え始めている。
*
夜。
黄金のポータルは、誰にも見向きされないまま、虚しく回転し続けている。
視聴者数は五十万人にまで落ち込んだ。
彼女の胸元。
パジャマの隙間から見える肌に、赤い数字が浮かび上がっていた。
『残り時間:12:00:00』
システムの最終宣告。
死のカウントダウン。
十二時間後、彼女はシステムの設定通りに死ぬ。
物語の「お涙頂戴」の道具として。
タオルを交換する。
水気を帯びた布が、熱を持った肌に触れる音。
「……もう、いいよ」
彼女が、弱々しく笑った。
「私が死ねば、この世界も終わるんでしょ? なら、もう……」
彼女の唇を、人差し指で塞ぐ。
「明日」
平坦な声で告げる。
「熱が下がったら、スーパーに行く。特売の卵を買う」
カウントダウンが、無情に秒を刻んでいく。
「お前は死なない。明日も、明後日も、ただの日常が続く」
ポータルの光を背に受けながら、彼女の手を握る。
それは英雄としての誓いではなく、システムに対する宣戦布告だった。
視聴者数:450,000人。
膠着状態のまま、夜が更けていく。




