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読者不在のラストシーン ―物語の『面白さ』から自由になる方法―  作者: 伝福 翠人


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8/9

第8話 システムからの強制発注

 咳の音が、静寂を切り裂いた。


 コン、という軽いものではない。


 肺の底から泥を吐き出すような、湿った、重い音。


 彼女が布団の中で丸まり、口元を押さえている。


 指の隙間から、赤い飛沫が畳に散った。


 その瞬間。


 彼女の青白い肌の上に、血管のような赤い光が網目状に走った。


『システムアップデート:ヒロインに「死の呪い」を追加』


『緊急クエスト発生:世界樹の霊薬を入手せよ』


 網膜のログが、狂ったように点滅を始める。


『悲劇的展開』『同時視聴者数:1,000,000人――急増中』


「キタキタ」「急展開!」「主人公、覚醒しろ!」


 コメント欄が、熱を帯びた文字列で埋め尽くされる。


 読者が戻ってきた。


「ヒロインの不治の病」という、最も安直で、最も効果的な劇薬に群がる蝿のように。


 彼女が、血に濡れた唇を震わせる。


「……痛いよ」


 システムによって強制的に書き込まれた「痛み」。


 彼女の瞳が、救いを求めてこちらを見上げる。


     *


 部屋の中心。


 空間が歪み、黄金の光を放つポータルが出現した。


 荘厳なコーラスのBGMが、どこからともなく鳴り響く。


『クエストナビゲーション:霊薬のあるダンジョンへ転送します』


 光の矢印が、ポータルを指し示している。


 剣を取り、ここへ飛び込めば、再びあの狂った英雄の物語が始まる。


 視聴者は喝采し、この世界は存続するだろう。彼女の命も救われる。


 そして俺たちは、永遠に消費され続ける。


 立ち上がる。


 ポータルを一瞥する。


 そして、その横を通り抜け、台所のシンクへ向かった。


 BGMが、一瞬だけ音程を外したように聞こえた。


 蛇口をひねる。


 冷たい水で、百円ショップで買った薄いタオルを濡らし、固く絞る。


 布団に戻る。


 彼女の額に、濡れタオルを乗せる。


 血で汚れた口元を、ティッシュで淡々と拭き取る。


「……行かない、の?」


 彼女が、かすれる声で尋ねる。


「ただの風邪だ。寝ていれば治る」


 ポータルが、激しく明滅し、自己主張を強める。


 だが、俺は背を向けたまま、安物の電子体温計を彼女の脇に挟んだ。


『視聴者数の停滞を検知』


「え?」「何してんの?」「早く行けよ」「クソ展開」


 伝説の霊薬ではなく、ただの水道水と体温計。


 期待を完全に裏切られた視聴者の熱が、急速に冷え始めている。


     *


 夜。


 黄金のポータルは、誰にも見向きされないまま、虚しく回転し続けている。


 視聴者数は五十万人にまで落ち込んだ。


 彼女の胸元。


 パジャマの隙間から見える肌に、赤い数字が浮かび上がっていた。


『残り時間:12:00:00』


 システムの最終宣告。


 死のカウントダウン。


 十二時間後、彼女はシステムの設定通りに死ぬ。


 物語の「お涙頂戴」の道具として。


 タオルを交換する。


 水気を帯びた布が、熱を持った肌に触れる音。


「……もう、いいよ」


 彼女が、弱々しく笑った。


「私が死ねば、この世界も終わるんでしょ? なら、もう……」


 彼女の唇を、人差し指で塞ぐ。


「明日」


 平坦な声で告げる。


「熱が下がったら、スーパーに行く。特売の卵を買う」


 カウントダウンが、無情に秒を刻んでいく。


「お前は死なない。明日も、明後日も、ただの日常が続く」


 ポータルの光を背に受けながら、彼女の手を握る。


 それは英雄としての誓いではなく、システムに対する宣戦布告だった。


 視聴者数:450,000人。


 膠着状態のまま、夜が更けていく。

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