第7話 シュレディンガーの平和
窓の外には、空がなかった。
雲も、隣のトタン屋根も、遠くに見えていた電波塔もない。
ただ、眼球を刺すような純白。
テクスチャの読み込みに失敗した3Dモデルの内側のように、完全な『無』が広がっている。
光の束が差し込んでいるが、そこに熱はない。
冷ややかな蛍光灯に似た白濁した光。
その光を背に受けながら、針に糸を通す。
踵の部分に穴の開いた、灰色の靴下。
チク、チク。
布を縫い合わせる微かな音だけが、六畳間に落ちる。
網膜の端。
『同時視聴者数:86人』
もう、誰もこの停滞に関心を持たない。
一〇〇万人を熱狂させた英雄の物語は、ただの「放送事故」として処理されつつある。
*
コトリ。
ちゃぶ台に、湯呑みが置かれた。
濁った緑色。
表面に、一本の茶柱が立っている。
針を動かす手を止め、湯呑みを見つめる。
向かいには、彼女が座っている。
「……ねえ」
彼女の視線が、真っ白な窓へ向いた。
「外、何もないね」
喉の奥が、微かに引き攣る。
物語のキャラクターが世界の異常に言及することは、メタ的な「謎解き」の開始を意味する。
それは、残った八十六人の読者の考察欲を刺激してしまう。
湯呑みを手に取る。
すする。いつもより、ひどく苦い。
「……茶葉、変えたのか」
噛み合わない返答。
窓の外の異常を、完全に無いものとして扱う。
彼女の肩が、微かに震えた。
握りしめた拳の関節が白くなっている。
「どうして……どうして誤魔化すの? 昨日から、ずっとおかしいよ。街も、あなたも」
答えない。
二口目の茶をすする。
『考察コメント検知』
『視聴者数:92人――微増』
彼女の問いかけが、停滞した水面に波紋を広げかけている。
無視を貫く。
茶柱が、静かに湯呑みの底へ沈んでいった。
*
ポケットの中が、脈打っている。
侵入者から奪った『管理者領域への鍵』。
黒い金属の塊が、心臓のように一定のリズムで鼓動している。
指先で触れる。
その瞬間。
鍵を中心に、座っている畳のテクスチャが波打った。
擦り切れた井草が、異常なほど鮮やかな緑色に蘇る。
畳の目の一つ一つが、不自然なほどの高精細で描き出される。
アイテムが持つ『物語の力』が、崩壊した世界を修復しようとしている。
舌打ちが漏れそうになるのを、奥歯を噛んで耐える。
この鮮やかさは、劇薬だ。
読者の目を惹きつけ、物語を再起動させてしまう毒。
傍らにあった数日前の古新聞を手に取る。
無造作に広げ、発光するほど鮮やかな畳を覆い隠す。
見出しの『連続強盗事件』という文字が、鍵の光を遮断した。
美しい世界はいらない。
誰も見向きもしない、くすんだ灰色の底辺でいい。
*
夜。
正確には、時計の針が午後十時を指した時刻。
窓の外は相変わらず白いままだが、部屋の蛍光灯の紐を引く。
完全な暗闇。
布団に横たわる。
目を閉じ、自身の胸に手を当てる。
ドクン。ドクン。
心音の回数を数え始める。
映像的価値ゼロ。音声情報もほぼゼロ。
画面の向こう側の読者には、ただの真っ暗な画面が延々と映し出されているだけ。
『同時視聴者数:40人』
『25人』
『12人』
数字が、一桁へと近づいていく。
呼吸を薄くし、脳波を平坦に保つ。
このまま、最後の十二人が飽きてブラウザを閉じれば、俺たちは自由になる。
背後で、衣擦れの音がした。
彼女の布団。
畳を擦る微かな音。
背中に、柔らかな重みが押し付けられる。
「……お願い」
暗闇の中で、彼女の腕が背後から回される。
「どこにも、行かないで」
押し付けられた額。
震える声。
そして、その体温。
世界が冷たいバグに侵食されていく中で、彼女の熱だけが、痛いほどの実在感を持ってそこにあった。




