第6話 アンチ・クライマックスの極致
「さあ! 英雄の帰還を見せてみろ!」
黒コートの男が咆哮する。
彼の右手に収束した青白い炎が、彼女の髪を焦がしかけていた。
『最高潮』
『同時視聴者数:850,000人――急上昇』
網膜のシステムログが、真っ赤に明滅している。
画面の向こう側の熱気。一〇〇万人近い読者が、今まさに「主人公が圧倒的な力でヒロインを救う」という極上のカタルシスを待ち構えている。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
その水滴すら、読者を煽る完璧な演出だった。
視線を落とす。
アスファルトのひび割れ。
歩き出す。
「来るか! その炎ごと、お前を消し飛ばしてやる!」
男の炎が、巨大な火柱となって放たれる。
焦点を合わせない。
ただ、地面だけを見る。
あ、百円玉が落ちている。
そう気づいたような速度で、膝を曲げる。
熱波が頭上を通り過ぎ、背後の壁をドロドロに溶かした。
視線は百円玉に向いたまま、滑るように前へ。
炎の魔法は直線的だ。演出効果のために派手な火の粉を散らすが、実際の殺傷判定があるのは中心の細い軌道だけ。
システム上の『死角』。
彼女の足元に到達する。
男は、自分の最大魔法が外れたことに気づいていない。
「どうだ! これが俺の――」
「邪魔だ」
呟きと共に、立ち上がる。
反撃ではない。
ただ、「立ち上がる」という動作の途中に、男の顎があっただけ。
ごきり、と嫌な音が響いた。
脳を揺らされた男の炎が、瞬時に霧散する。
「え……?」
男が間抜けな声を漏らし、よろめいた。
彼の足元には、数分前に俺が避けた空き缶が転がっていた。
ズリッ。
男の足が滑る。
バランスを崩し、仰向けに倒れ込む。
その真後ろには、魔法で鋭く尖ったコンクリートの瓦礫。
ゴンッ。
鈍い音。
男は白目を剥き、そのまま動かなくなった。
*
静寂。
あまりにも呆気ない。
魔法の撃ち合いもない。怒号もない。
ただの、不注意による自滅。
『視聴者数:激減中――10,000、1,000……』
『エラー:カタルシス値の暴落を検知』
網膜のログが、血の気が引くような速度で更新されていく。
「放送事故だろこれ」「は?」「時間の無駄だった」「萎えたわ」
読者の落胆が、物理的な冷気となって世界を凍らせていく。
「……助けて、くれたの?」
彼女が、震える声で尋ねてきた。
視線を合わせない。
足元を見る。
「靴紐、解けてる」
彼女の足元を指差す。
それだけを言い残し、気絶した男に歩み寄る。
彼女の感謝を、ただの日常の指摘で切り捨てる。
男のポケットが微かに光っていた。
手を突っ込み、引き摺り出す。
黒い、奇妙な形をした鍵。
『アイテム獲得:【管理者領域への鍵】』
システムのアナウンスが響いた瞬間。
視界の半分が、音を立てて剥がれ落ちた。
空の青。アスファルトの灰色。
それらがエラーを起こした画像のようにモザイク状に崩れ、純白の空間が剥き出しになる。
『同時視聴者数:86人』
世界は今、消滅の縁に立っていた。




