第5話 侵入者、あるいは『主人公』になりたかった男
銀の砂時計から落ちる砂の音が、耳にこびりついている。
チリ、チリ、チリ。
焦げた食パンの匂い。
ちゃぶ台の向かいで、彼女がマーガリンを塗る手が震えている。
視線は、部屋の片隅に置かれた砂時計に釘付けになっていた。
「あのさ」
彼女が口を開きかけた瞬間、立ち上がる。
「バイトだ」
彼女の顔が歪む。
『何か』を言葉にすれば、この部屋の停滞は破られ、物語が転がり始めてしまう。
それを分かっているのか、彼女は唇を噛み、俯いた。
網膜の端。
『同時視聴者数:12,000人』
このまま、すべてが砂のように崩れ落ちてくれればいい。
そう思いながら、古びたドアを開けた。
*
異変は、駅から二つ目の交差点で起きていた。
赤信号を無視して突っ込んできたスポーツカーが、見えない壁に激突したように宙を舞う。
アスファルトが紙屑のようにめくれ上がり、街路樹が根本からへし折れた。
砂埃の中央。
黒いコートを着た若い男が、右手から青白い炎を立ち昇らせていた。
「見ろよ! これこそが物語だ! 俺がこの停滞を壊してやる!」
男の叫び声。
彼は『観測者』ではない。無限流のシステムに取り込まれ、自ら「主人公」となることを選んだ狂信者の一人だ。
逃げ惑う人々。
空を引き裂く炎の柱。
サイレンの音。
網膜のアラートが、視界を赤く染め上げる。
『ボスキャラクター登場』
『視聴者数爆発的増加:150,000、300,000――』
『緊急クエスト:街を破壊する暴徒を鎮圧せよ』
数値が跳ね上がる。
読者の飢えが、熱を帯びた視線となって背中を突き刺す。
黒コートの男が、こちらに気づいた。
「お前が『観測者』か! 伝説の男も随分と丸くなったな。さあ、俺と戦え! この世界を存続させるための、最高の名シーンを作ろうぜ!」
男の手から、火球が放たれる。
直撃すれば、周囲数十メートルが消し飛ぶ質量。
足の裏の感覚を、アスファルトの凹凸に集中させる。
右足の歩幅を三センチ広げ、左肩を五ミリ下げる。
火球が、耳の横を通り過ぎていく。
背後の空きビルに直撃し、轟音と共にコンクリートが砕け散る。
熱波で前髪が焦げる。
「どうした! 反撃してこい!」
次々と放たれる魔法。
歩くペースは変えない。
ただ、落ちていた空き缶を避けるように、飛来する看板の下を潜るように。
偶然の連続のように見せかけて、すべての致死の軌道をすり抜けていく。
『フラストレーション検知:主人公の不作為に対する批判』
コメント欄が荒れ始める。
「戦えよ」「避けてるだけじゃん」「ダサい」
それでいい。
この戦いを、「偶然生き延びているだけのモブキャラの逃走劇」へと矮小化する。
*
ファミレスの跡地。
かつてチンピラに屈服した場所は、今や半壊した瓦礫の山だった。
「ふざけるな……なぜ戦わない!」
男の周囲で、青白い炎が竜巻のように収束していく。
最大火力の詠唱。
これを放たれれば、この区画ごと灰になる。
止めるべきだ。
右手を突き出せば、一瞬で彼の心臓を潰せる。
だが、それは英雄の帰還を意味する。
ポケットから、ひび割れた画面のスマートフォンを取り出す。
「――はい。お疲れ様です。今日のシフトなんですが、ちょっと道が混んでまして。ええ、少し遅れます」
男の詠唱が、一瞬止まる。
炎がブレる。
「は……? お前、今……」
命のやり取りという最高潮の舞台に持ち込まれた、極めて日常的で、事務的で、つまらない「連絡」。
場の空気が、致命的に白けた。
『視聴者数:急速低下中』
『カタルシスの喪失』
男の顔が、怒りから困惑、そして絶望へと変わる。
「物語の主役」になるはずだった自分が、「バイトの欠勤連絡」以下の存在として扱われたことへの屈辱。
彼が、狂ったように笑い出した。
「そうか。お前は、本当に……」
その時だった。
背後で、瓦礫が崩れる音がした。
振り返る。
買い物袋を落とし、へたり込んでいる彼女の姿。
なぜ、ここに来た。
男の炎が、彼女に向かって収束していく。
「戦わないなら、こいつを燃やすぞ! 『観測者』!」
男の叫び。
彼女の怯えた目と、交差する。




