第4話 『退屈』という名の防衛線
「――見事なやられっぷりだ。歴戦の『観測者』殿」
暗闇から、男が踏み出してきた。
仕立ての良いスーツ。だが、その足元――革靴とアスファルトが接する部分だけが、周囲のぼやけた景色から浮き上がるように、異常に高い解像度を保っている。
『システム干渉者』。
かつて第六の世界で相対した、運営側のイレギュラー。
「まさか、あの無敗の英雄が、ただのチンピラに泥を舐めさせられるとはな。だが、理解できるぞ。君は気づいたのだろう? この世界の『視線』のシステムに」
男の声には、芝居がかった抑揚がある。
読者が好む、意味深な悪役のトーン。
網膜のアラート。
『重要キャラクター登場』
『視聴者数上昇の兆し』
反応してはならない。
会話のキャッチボールは、物語を前進させてしまう。
ゴミ袋の口を縛る。
アスファルトに置く。
「……業務用の中性洗剤は、手荒れが酷い」
「……は?」
「原液を三倍に薄める規定だが、店長は五倍に薄めろと言う。だから泡立ちが悪い。油汚れが落ちない」
男の美辞麗句を、底辺労働の愚痴で上書きする。
男の顔から、余裕の笑みが消えた。
「何を言っている? 私は、この世界の消滅を――」
「シフトも不満だ。深夜二時までの契約なのに、締め作業で必ず三十分はサービス残業になる」
歩き出す。
男を置き去りにして、路地を抜ける。
『視聴者の困惑を検知』
『同時視聴者数:8,500人――停滞』
*
背後から、一定の距離を保って足音がついてくる。
アパートの階段。錆びた鉄の音。
ドアを開ける。
ちゃぶ台の前で膝を抱えていた彼女が、顔を上げる。
その視線が、背後の男を捉え、こわばった。
「誰、その人……」
男が、勝手に上がり込む。
「失礼するよ。君が噂のヒロインか。なるほど、美しい」
男が彼女の髪に手を伸ばす。
指先から、微かな魔力が火花のように散る。
彼女の肩が跳ねた。
『フラグ発生:ヒロインの危機』
『視聴者数:12,000人』
動かない。
靴を脱ぎ、定位置である壁際に座り込む。
「おい、観測者。自分の女が触られようとしているのに、その態度か?」
男の挑発。
指先を動かせば、男の眼球を二つとも潰せる。
だが、その衝動を深い呼吸で胃の奥に沈め、壁のシミの数を数え始める。
十五、十六、十七……。
「……狂ったか。まあいい、要件だけ伝えよう」
男が懐から、銀色の砂時計を取り出した。
中の砂は、すでに残りわずかだ。
「この世界の『寿命』だ。読者の関心が薄れ、世界の崩壊がこのまま進めば、あと七日でこの空間は完全に消失する」
男は砂時計をちゃぶ台に置いた。
「君が再び剣を取り、物語を『面白く』するなら、私がシステムに掛け合ってやろう。だが、このまま退屈を演じるなら、君も、その女も、無に還る」
男が立ち上がる。
革靴が床を叩く音。
「七日だ。良い返事を期待しているよ」
ドアが閉まる音。
室内には、微かに発光する銀色の砂時計と、震える彼女だけが残された。
「……ねえ」
彼女の声が、震えている。
「あの人の言ってたこと、本当なの? この世界が、消えるって……。あなたが毎日、こんなにつまらない男になっちゃったのは、そのためなの?」
『視聴者数:15,000人』
『考察コメント増加中』
答えない。
壁のシミを見つめ続ける。
七十三、七十四、七十五……。
ただ、心臓の音だけが、砂時計の落ちる音と不協和音を奏でていた。




