表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
読者不在のラストシーン ―物語の『面白さ』から自由になる方法―  作者: 伝福 翠人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

第3話 究極の無能を演じる

 中性洗剤の泡が、肘を伝って冷たく滑り落ちる。


 場末のファミリーレストラン、深夜の厨房。


 指先は白くふやけ、感覚が鈍っている。


「おい、手ぇ止まってんぞ!」


 店長の怒声。


 耳の奥で、かつて聞いた砲弾の炸裂音が微かにフラッシュバックする。


 それを、深く息を吐くことで抑え込む。


「すみません」


 抑揚のない声。


 首を六十度傾け、スポンジを動かす速度をわずかに上げる。


 網膜の端。


『同時視聴者数:25,000人』


 安定した底辺の数字。


 誰も、中年のフリーターが皿を洗うだけの映像など見たくはない。


     *


 ホールの空気が変わった。


 食器の触れ合う音が消え、代わりに粘着質な怒声が響く。


「なんだこのスープの温度は! 舐めてんのか!」


 壁際のテーブル。


 金髪に安物のシルバーアクセサリーをじゃらつかせた男が、ウェイトレスの顔にスープをぶちまけていた。


 床に散らばる陶器の破片。蹲るウェイトレスの嗚咽。


 システムのアラートが、視界を赤く染め上げる。


『緊急クエスト発生:店を守り、悪を挫け』


『予想視聴率急上昇:カタルシスイベントへの期待』


『同時視聴者数:40,000人――上昇中』


 他の客が息を潜める。


 厨房の店長は目を逸らし、裏口へと逃げるように後ずさっている。


 すべての視線が、「誰か」が立ち上がるのを求めている。


 歩み寄る。


 男がこちらを睨む。


 首の血管が浮き出ている。動脈の位置。打撃の軌道。


 指を二本使えば、一秒以内に沈黙させられる。


 筋肉が、最適解を求めて僅かに硬直した。


 その硬直を、無理やりへし折る。


 両膝を、固いリノリウムの床に叩きつけた。


「大変、申し訳ありません」


 両手をつく。額を床に擦りつける。


「なんだてめぇ」


 男の靴が、顔の横に迫る。


「私どもの不手際です。お代は結構ですので、どうかお引き取りを」


 感情を殺す。ただのスピーカーになり果てる。


「ふざけんな!」


 右からの蹴り。


 躱せる。躱してしまう。


 だから、あえて顔面の筋肉を弛緩させ、まともに受けた。


 鼻柱から砕けるような音が響き、視界が白く飛んだ。


 血の味が口内に広がる。


 さらに、頭を踏みつけられる。


 床のワックスの匂いと、男の靴底のゴムの臭い。


「……申し訳、ありません」


 血の混じった唾を飲み込みながら、もう一度言う。


 周囲の客が、露骨に顔を背けた。


 ウェイトレスの嗚咽が、失望の溜息に変わる。


『クエスト失敗』


『視聴者の激しい嫌悪を検知』


「チッ、気味の悪い野郎だ。行くぞ」


 男が立ち上がる足音。


 自動ドアの開閉音。


『同時視聴者数:8,000人――暴落』


「最低」「胸糞悪い」「もう見ない」「引退しろ」


 システムログを、赤字のコメントが滝のように埋め尽くしていく。


     *


 閉店後の裏口。


 誰もいない暗がりで、鼻血を拭う。


 痛みはない。システムによって修復される肉体に、傷は残らない。


 視界の端を見る。


 客席から見えた、大通りのネオンサイン。


 その「ファミレス」という文字が、砂のようにパラパラと崩れ落ちていた。


 テクスチャが剥がれ、無地の灰色のポリゴンが剥き出しになっている。


 世界の欠落。


 読者が目を背けた結果。


 これでいい。


 その時だった。


 パァン、パァン、パァン。


 暗闇の奥から、乾いた拍手の音が響いた。


 一定のリズム。


 アパートの廊下で聞いた、あの通知音と同じ間隔。


「――見事なやられっぷりだ。歴戦の『観測者』殿」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ