第3話 究極の無能を演じる
中性洗剤の泡が、肘を伝って冷たく滑り落ちる。
場末のファミリーレストラン、深夜の厨房。
指先は白くふやけ、感覚が鈍っている。
「おい、手ぇ止まってんぞ!」
店長の怒声。
耳の奥で、かつて聞いた砲弾の炸裂音が微かにフラッシュバックする。
それを、深く息を吐くことで抑え込む。
「すみません」
抑揚のない声。
首を六十度傾け、スポンジを動かす速度をわずかに上げる。
網膜の端。
『同時視聴者数:25,000人』
安定した底辺の数字。
誰も、中年のフリーターが皿を洗うだけの映像など見たくはない。
*
ホールの空気が変わった。
食器の触れ合う音が消え、代わりに粘着質な怒声が響く。
「なんだこのスープの温度は! 舐めてんのか!」
壁際のテーブル。
金髪に安物のシルバーアクセサリーをじゃらつかせた男が、ウェイトレスの顔にスープをぶちまけていた。
床に散らばる陶器の破片。蹲るウェイトレスの嗚咽。
システムのアラートが、視界を赤く染め上げる。
『緊急クエスト発生:店を守り、悪を挫け』
『予想視聴率急上昇:カタルシスイベントへの期待』
『同時視聴者数:40,000人――上昇中』
他の客が息を潜める。
厨房の店長は目を逸らし、裏口へと逃げるように後ずさっている。
すべての視線が、「誰か」が立ち上がるのを求めている。
歩み寄る。
男がこちらを睨む。
首の血管が浮き出ている。動脈の位置。打撃の軌道。
指を二本使えば、一秒以内に沈黙させられる。
筋肉が、最適解を求めて僅かに硬直した。
その硬直を、無理やりへし折る。
両膝を、固いリノリウムの床に叩きつけた。
「大変、申し訳ありません」
両手をつく。額を床に擦りつける。
「なんだてめぇ」
男の靴が、顔の横に迫る。
「私どもの不手際です。お代は結構ですので、どうかお引き取りを」
感情を殺す。ただのスピーカーになり果てる。
「ふざけんな!」
右からの蹴り。
躱せる。躱してしまう。
だから、あえて顔面の筋肉を弛緩させ、まともに受けた。
鼻柱から砕けるような音が響き、視界が白く飛んだ。
血の味が口内に広がる。
さらに、頭を踏みつけられる。
床のワックスの匂いと、男の靴底のゴムの臭い。
「……申し訳、ありません」
血の混じった唾を飲み込みながら、もう一度言う。
周囲の客が、露骨に顔を背けた。
ウェイトレスの嗚咽が、失望の溜息に変わる。
『クエスト失敗』
『視聴者の激しい嫌悪を検知』
「チッ、気味の悪い野郎だ。行くぞ」
男が立ち上がる足音。
自動ドアの開閉音。
『同時視聴者数:8,000人――暴落』
「最低」「胸糞悪い」「もう見ない」「引退しろ」
システムログを、赤字のコメントが滝のように埋め尽くしていく。
*
閉店後の裏口。
誰もいない暗がりで、鼻血を拭う。
痛みはない。システムによって修復される肉体に、傷は残らない。
視界の端を見る。
客席から見えた、大通りのネオンサイン。
その「ファミレス」という文字が、砂のようにパラパラと崩れ落ちていた。
テクスチャが剥がれ、無地の灰色のポリゴンが剥き出しになっている。
世界の欠落。
読者が目を背けた結果。
これでいい。
その時だった。
パァン、パァン、パァン。
暗闇の奥から、乾いた拍手の音が響いた。
一定のリズム。
アパートの廊下で聞いた、あの通知音と同じ間隔。
「――見事なやられっぷりだ。歴戦の『観測者』殿」




