第2話 一歩でも動けば、物語が動き出す
換気扇が、一定のリズムで油の匂いを吐き出している。
築四十年の木造アパート、六畳一間。
水道の蛇口から落ちる水滴を、ただ見つめる。
一滴。二滴。
ステンレスのシンクに当たる甲高い音だけが、この空間の時間を進めている。
網膜の端。
『同時視聴者数:150,200人』
かつての熱狂は去った。
英雄がただのフリーターとして沈殿する様に、彼らは急速に興味を失い始めている。
これでいい。
*
ノックの音。
トン、トントン。
三度目の世界、焦土と化した前線基地で彼女が使っていた合図。
ドアノブを回す。
錆びた蝶番が軋む。
彼女が立っていた。
かつての戦友。第八の世界から引き剥がし、この終着点まで連れてきた唯一の生存者。
「……買い物、してきた」
スーパーの袋。覗くトマトの赤が、ひどく鮮やかに見えた。
このモノクロームの世界で、彼女だけが強烈な色彩を放っている。
網膜のアラート。
『期待度上昇中:ラブコメ展開の予兆』
『同時視聴者数:400,000人』
彼女が部屋に入る。
狭いキッチン。すれ違うには、肩を丸める必要がある。
彼女の髪が揺れる。
シャンプーの匂いが、空気を一瞬だけ甘くした。
「あのさ、」
彼女が振り返る。
バランスを崩す。足元の古雑誌にヒールが引っかかった。
『フラグ発生:ヒロインの転倒。接触イベント』
『予想視聴率上昇』
彼女の身体が傾く。
床に向かって、スローモーションのように倒れていく。
手が、反射的に伸びかけた。
止める。
筋肉の緊張を解き、指先をポケットに突っ込む。
半歩下がり、壁に背中を預けた。
鈍い音。
彼女が床に崩れ落ちた。
スーパーの袋がひっくり返り、赤いトマトが床を転がっていく。
沈黙。
彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
膝を擦りむいたのか、顔を歪めている。
「……痛っ」
視線が絡む。
助けを求める、あるいは、なぜ助けなかったのかという困惑の瞳。
何も言わない。
ただ、転がったトマトを見つめる。
「……ごめん。片付けるね」
彼女が這いつくばるようにして、トマトを拾い集める。
その背中を、見下ろし続ける。
『クエスト消滅』
『視聴者の失望を検知』
『同時視聴者数:50,000人――急落』
数字が砕ける。
同時に、壁のシミの輪郭がわずかにぼやけた。世界の解像度が一段階、下がった。
*
ちゃぶ台。
塩だけの白菜炒め。
箸が皿に当たる音だけが響く。
彼女の視線が、何度もこちらを探るように泳ぐ。
かつての英雄の面影を探すように。
だが、ここにあるのは空洞だけだ。
「あのね、今日――」
言葉を遮るように、立ち上がる。
「寝る」
彼女の言葉が宙で凍りつく。
目に宿っていた光が、急激に色を失い、すりガラスのように濁っていく。
「……そう。おやすみ」
布団に潜り込む。
天井の木目を数える。
視聴者数は、三万を切った。
世界が、少しだけ灰色に沈む。
玄関の向こう。
誰もいないはずの廊下から、無機質な通知音が鳴った。




